白井の氏神様

清水口  坪井 敏

1 はじめに

白井の郷土史の会で最初に調べて見ようと思いたったのは、実は歴史的遺物で無く市内の各所に点在する鎮守の森の植生即ち植物を調査し、それが自然の状況でどの程度残っているのか、即ちニュータウン法(新住宅市街地開発事業)によりどの程度破壊されたが知りたいと思ったことであった。調査結果は1999年発行の「たいわ16号」に記載した如く土地の買収が上手く行かず未買収地、営農地域を残し殆どの集落及び鎮守の森は残りほっとしたことを覚えている。それは日本経済の高度成長が歪を起こし今までのガラガラポンで全てを解決する方法を取れなくなる事を意味する。この鎮守の森に残された自然と歴史遺産を保護管理して後世に残すのが現在生活している私達の使命であるが、大規模開発は出来なくなったが規制緩和、解除による小規模開発や開発庁廃止に伴う開発があり安心は出来ない。前回は植物中心で高木、低木、樹種、神木、参道の有無、社の地形等を調べたが今回は氏神さんを主体に文化遺産、史跡を調べて見ることにした。


2 日本人と日本の神様達

古代から日本には自然崇拝、山川草木すべてに宿る霊、妙にして不可思議な力の存在を意識し、それを神と称してきた。この神を祭る宗教を神道と呼んだのは日本最古の歴史書と言われている「日本書紀」である。これによると神道とは人知では諮り知ることの出来ない自然界の法則であり、神は常に清浄で穢れを許さない。更に神道には教典も無いし古代から多くの日本人は神道を宗教とは殆ど意識せず日常の道徳的基準としてきた。あらゆる自然界の存在に神が存在することは人間も自然の一部であり、自然を親として生かされているという考えから祖先崇拝、いまの存在が祖霊崇拝に繋がって来る。古代よりつい最近まで日本人は自然崇拝を太い軸に祖先崇拝を絡ませて世界観を造り暮らしてきたがしかし八百万とも云われる日本の神は極めて多く複雑多岐に亘っている。日本の神の話は郷土史はおろか歴史ではなく神話の話、神話の世界に入りこんでしまう。神話の話と歴史上の人物が平行してあらわれるのは神様でも昔から人々は傑出した人物を神と崇め、神としてきたからである。代表的人物として藤原時代の御霊信仰の菅原道真、陰陽道の安倍清明、東照大権現の徳川家康などが上げられる。

神話に登場する神様達を大きく分類すると天上の雲上の国、高天原に鎮座する「天津神」と「国津神」地上の山中にあって雲や霧の中に鎮座する神と分かれる。その関係は天津神は天から降臨する偉大な神であり、国津神はそれをお迎えしてそれにお使えするとされている。古事記には良く知られた話として高天原より降臨してくるアマテラスの孫のニニギノミコトを葦原の中つ国でお迎えしたサルタヒコが国津神として挨拶をしている。天津神と国津神との関係は祀られる神と祀る神との関係にあり白井の氏神に登場する神様は両者と実在の人物である。日頃神との接点として目に付くのは祖先、先人の残してくれた素朴な石碑であり氏神様であります。神様は普段は人気が無くてもお祭やお正月の前には護持する人々が集い清掃しています。


3 鎮守様、産土神様、氏神様そして氏子とは

鎮守様とはその土地に座し土地とその土地の全ての者を守る神の事であり昔から見えないものであるが存していた。産土神は産まれた土地の神の事であり、その者の一生を守護する神と考えられた、かつては現在と異なり生を受けた土地に死ぬまで住むことが当たり前であり、殆どの人にとっては産土神と鎮守とは同じ神であった。しかしおおく氏神は全国的に有名な神社の分霊を迎えて氏神とした例が数多く見られる。

氏神の語源は氏の神、地域の豪族が守護神として祖先を祭ったもので例えば藤原氏の春日大社、源氏の八幡信仰などがあるが中世以降現在はその周辺に住み、その氏神の祭礼等行事に参加するもの全体を「氏子」と称するものとなった。そして氏神は鎮守、産土神と区別はなくなり、同じ氏神を祭る人びとを「氏子中」「氏子同」と言いその代表者である氏子総代が中心になり神事や祭事をお執り行う。現在でも行われている七五三などは土地に認められる儀式のひとつである。更に氏神の周辺に住んでいないがその神を信仰している者を「崇敬者」と呼び、氏子とあわせて「氏子崇敬者」といい氏神様を護持する。


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4 氏神さんとその他の神様

わが国には八百万の神様達が古代から居られると言われおり自然を畏敬し森羅万象、全て神が司るものとする自然崇拝は古代から脈々と現在まで受け継がれてきている。

事実何処にいても神威・神格を表す山の神、地の神、水の神に遭遇しながら生きて生計をたててきていた。今まで市内で水脈を探したり、道を調べても人が住む所は必ず何所にでも神様が祭られ崇敬されていた。

前回鎮守の森を調べた時は郷土史の会にも参加してなく資料とすべき物は無いので愛用している国土地理院が発行している2万5千分の地図の白井より神社印の鳥居を捜し仮に鎮守の森所在地として調べた。その結果は全部で31箇所、神社名が記載されていたのは清戸の宗像神社のみであった。今回は市内の集落を訪ね住民より見聞きして氏神様をきめたが、この内宗教法人として正式に登記されているのは神社は20社でありそれ以外は無登録であるが、多くの社殿では神事は行われていた。唯残念なのは最近経済最優先の風潮に流され生活が豊になるに従い公私の私の部分が中心になって居るのか調査散歩で歩いていても護持する氏子が減る話ばかり。一桁の氏子で護持しているところも在る。しかし交通の便が良くなり経済が良くなり金銭的に余裕が出来ている今は氏神の補修や新設も行われている所も各所に見られ決して忘れ去られてばかりではない。

白井の氏神様一覧表

表 1
南より北へ   ○は法人
No.神社所在創建・由緒法人
1冨士 八幡冨士ホンダワケ1979昭和54年
2富ヶ沢愛宕復字上ヒカグツチ不詳
3富ヶ沢香取復字下フツヌシ不詳
4富ヶ谷鳥見復字池の上ニギハヤヒ不詳
5白井木戸天根字上菅原道真1730享保15年
6法目八幡復字池の上ホンダワケ不詳
7長殿熊野復字和田イザナミ不詳
8七次大日根字小山アマテラス1677延宝5年
9谷田八幡谷田浅間下ホンダワケ1658万治元年
10谷田飯綱谷田字澤山ウガタマ不詳
11清戸宗像清戸字溝桁タギツヒメ他876貞観8年
12根 天根字下郷谷イザナミ不詳
13野口愛宕木字野口カグツチ1596慶長元年
14中木戸諏訪根字壷良毛タケミナカタ1734享保19年
15所沢 鷲木字南境アメノヒワシ1677延宝5年
16神々廻駒形神々廻花発込オオヤマズミ1736元文元年
17白井鳥見白井字東郷ニギハヤヒ不詳
18富塚鳥見富塚字北之内ニギハヤヒ不詳
19折立熊野折立字南原イザナギ不詳
20神々廻鳥見神々廻西発込ニギハヤヒ1257建長7年
21富塚金毘羅富塚荒久尻オオモノヌシ不詳
22十余一香取十余一字並木フツヌシ1870明治3年
23河原子天中字元天神アマテラス不詳
24中 八幡中字中割ホンダワケ不詳
25平塚鳥見平塚字北口ニギハヤヒ不詳
26平塚八幡平塚字北口ホンダワケ不詳
27名内鳥見名内字宮脇ニギハヤヒ不詳
28名内粟島名内字屋敷廻オウムチ1558?永禄元年
29小名内鳥見名内字小名内ニギハヤヒ不詳
30今井稲荷今井新田ウカノミタマ不詳
註 * 祭神は複数の場合もあり明確で無い。

5 氏神様の合祀

氏神様の変遷は王政復古、廃仏毀釈の明治初年と明治末年に行われた神社合祀の勅令により国内で7万の神社が取り壊され、合祀されたと言われている。これは現在行われている町村合併と同じく国家神道即国の費用を集中して使うために1町村1神社を基準にして行われた。現在白井の神社を歩いて見ても七次の大日神社の如く別の神社が合祀されたり、又河原子の天神社には金毘羅様の修復碑等が見られる。


6 氏神様の分布

現在の白井市域は近世(江戸時代)以前では富塚、折立、所沢、野口、七次、富ヶ沢、富ヶ谷、法目、長殿、橋本、名内、平塚、神々廻、清戸、谷田の15村と言われている。

それに江戸時代に開発された新田として中木戸、白井木戸、中村、今井の4ヶ村と近代になり設けられた十余一、冨士で新住宅市街地開発事業(ニュータウン法)で生まれた所を除き21箇所の集落に氏神様が鎮座されています。


7 氏神様の祭神様

表 2
市内に鎮座している氏神様の祭神は表1 通り、但し祭神は1柱とは限らない 代表
神社神 *御利数座
鳥見神社ニギハヤヒ他太陽の神
農作の神
7白井、神々廻、富塚、富ヶ谷、
名内、平塚、小名内
八幡神社ホウタワケ他勝利祈願4冨士、中、法目、谷田
天神社菅原道真学業成就3白井新田、河原子、白井
熊野神社イザナミ他開運招福2折立、長殿、
愛宕神社カグツチ火伏せ2富ヶ沢、野口、
富ヶ沢、十余一
香取神社フツヌシ勝利祈願2
その他各1
*  祭神、ご利益にも数説あり

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8 下総の氏神様の格付け

良く神社の話で格付けに使われる延喜年間の927年に定められた「延喜式神名帳」に寄れば、下総に鎮座する神として大1座、小10座が記されているか残念ながら白井には1座も選ばれていない。選定当時に無いのか、無届か、小規模か分らない。

参考のため現在千葉県の下総に存する式内社は下記に通り。

大1座香取神宮(香取市)
小6座寒川神社(千葉市)、蘇賀比咩神社(千葉市)、老尾神社(匝瑳市)
麻賀多神社(成田市)、茂呂神社(流山・松戸・船橋)
意富比神社(船橋市)  残り4座は現在県外である茨城等にある。

白井の氏神様は平安時代以降に勧進されて来た神様ばかりであろうか、市内で創建が知られている神様は清戸の宗像神社で貞観8年(876)平安時代に創建となっている。

尚 何故か市内に一番多く鎮座する、鳥見神社の多くは由緒や創建が不詳である。


9 日本の主な神社の神様

日本の神社の数は8万~12万位と言われています。しかし名前や祭神、ご利益で区分すると下記の通りだと云われる。

表 3

日本の神社が祭る主な神々

No.神社社の概数神 *
1稲荷神社約20,000ウカノミカタ穀物・商業・諸芸
2八幡神社15,000ホンダワケ文武
3神明神社18,000天照大御神太陽・皇祖・高天原
4天神・天満11,000菅原道真学問・受験
5八坂神社3,000スサノオ農業・穀物
6宗像神社8,500イチキシマヒメ他海・水・財福・技芸
7諏訪神社6,000タケミナカタ水神・農耕・狩猟
8出雲神社2,100オオクニヌシ縁結び・福徳・医薬
9住吉神社2,000ソコツツノオ他海・航海・和歌
10熊野神社3,3000ケツミコ他
* 祭神 数説あり  社の数は神社本庁 参照

市内にはあまり、いや全然全国的に知名度が低い創建も由緒も不明な鳥見神社が白井はじめ市内7箇所に多数存在するのか?創建の判明している鳥見さんは市内や近郊の鳥見さんから勧進したのかもしれない。途中から發展した地区は八幡様、稲荷様、天神様とか著名な神様を勧進して現在に至っている。何故無名の固有の神社である鳥見神社が市内に多数鎮座して創建が不詳なのか?疑問を持ち調べて見た。


10 鳥見神社とは何時、何所から来たのか

驚いたのは鳥見神社は市内だけで無く白井を含む北総地域、印旛沼・手賀沼の北部と利根川(東遷前は鬼怒川他)に挟まれた地域に偏在する特異な神社である。分布は白井市は7社、印西市は6社、印旛村は1社、本埜村は2社、現在は柏市だが旧沼南町に3社 合計21社が鳥見神社群として知られている。この中でどの神社が本社、分社とは決められていないが印西市の小林社については「千葉県印旛郡誌」には古代に大和の国城上郡鳥見山の鳥見大明神を勧進したとしている。又大和の鳥見大明神とは現在の奈良県桜井市に鎮座する等弥神社(式内社)の事であり、大和国から勧進したと思われる。

鳥見神社は残念ながら式内社にはなってはいないが延喜式が決められた時はどうなっていたのか。

鳥見神社の祭神は「アマテラス」の孫で天孫「ニニギ」の兄で有る「ニギハヤヒ」別名「アメノホアカリ」と云われてアマテラスから云えば直系中の直系で後に物部氏の祖先となる神が式内社にもなれずに印旛地域に散在しているのは訳ありと思える。

別の資料を見ると下総国印旛沼周辺には鳥見以外に3グループが秩序を持って鎮座している。

鳥見神社と同様に印旛沼の周辺に勢力を拡げていたのが「麻賀多神社」、「埴生神社」、「宗像神社」である。麻賀多神社は成田、佐倉、富里,酒々井に18社を要し延喜式神名帳にも印旛郡一座と記されている。祭神は「カグツチ」の子である「ワクムスビ」と云われ農業の神と言われている。

埴生神社は印旛沼東岸の台地の成田市、栄町にあり古代には埴生郡と言われた地域に三社鎮座し、神社の祭神は土を司るイザナミの子「ハニヤマヒメ」である。

4番目の神は全国区で有名な神、福岡県玄海町より勧進した水に関係する宗像神社であり、印旛沼南側の台地に散らばり印旛村に10社、印西市に2社、白井市に1社計13社が鎮座します。

祭神は宗像三女神の「タゴリヒメ」「タギツヒメ」「イチキシマヒメ」であり海、航海の神でもある。この4社が行儀良く印旛沼周辺を分割しているか古代からの謎である。


11 「ニギハヤヒ」とはどんな神で何をしたのか

鳥見神社の祭神「ニギハヤヒ」別名「アメノホアカリ」とはどんな神か、天津神の中心に位置する太陽神「アマテラス」の子「アメノオシホミミ」と「ヨロズハタトヨアキチシ」の間に生まれ、天孫降臨の主役の「ニニギ」の兄に当たる。過程は良く分からないが天孫降臨の以前に葦原の中つ国に行き国津神の「ナガスネヒコ」妹と結婚し2子を得ている。その後「ニニギ」の降臨の際や、子孫神武天皇の東征の際には国津神と共に頑強に抵抗するも後に神武の正当性を認め恭順する。その後息子「ウマシマジ」共に神武の東征を支え、物部氏の祖先となりヤマト勢力の祭祀と軍事を司る強大な地位を得る。

「ニギハヤヒ」を祭神とする神社は鳥見神社以外に磐船神社、物部神社、国津比古命神社、石切剣矢神社、等がある。更に「鳥見」「等弥」については常陸風土記等に諸説が有るが千年以上も前の出来事で不詳省略する。


12 まとめ

白井の氏神様の特異性を調べてみたが大和よりはるかに離れた印旛の地、昔は香取の海と言われた下総台地に点在する神様達、「ニギハヤテ」は国津神「ナガスネヒコ」に協力して「アマテラス」より「ジンム」に至る天津神のラインに逆らい抵抗したその事が辺鄙な所に鎮座を余儀なくされた理由ではないか。それぞれ各集落が何かにかこつけて神様を勧進して千年以上も守り続けてきた、この素朴な文化が経済大国の大都市近郊に位置する今、目に見えない心は経済中心の成果主義と言う大波に飲まれて消されようとしている、この瞬間に立会い心も体も寒々とした気持ちになっている。


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参考 1

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1 第二次大戦後引揚者が開拓して建立した冨士八幡神社

1949年創建  昭和時代
冨士八幡神社・内部
狛犬・灯籠・玉垣・集会所が整備
冨士八幡神社・鳥居
開拓記念広場に鎮座 鳥居は鉄製
冨士八幡神社・開拓記念碑
開拓記念碑

2 大政奉還 武士が帰農して建立した十余一香取神社

1870年創建  明治時代
十余一香取神社・鳥居
メイン道路木下街道に面した人工の小高い丘に鎮座
十余一香取神社

3 新田開発により成立した 中木戸(風間)諏訪神社

1734年創建  江戸時代
本殿と拝殿 最近焼失のため再建
中木戸(風間)諏訪神社・本殿と拝殿
 
中木戸(風間)諏訪神社・鳥居
風間街道に沿い入口には浅間さま(富士塚)

4 人口増?         神々廻鳥見神社

1257年創建  鎌倉時代
神々廻鳥見神社・鳥居
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  • 明神型花崗岩1919(大正7年)
    1対砂岩1924(大正13年)
    1対安山岩1915(大正4年)
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  • 拝殿完成1795(寛政7年)
    本殿完成1768(明和5年)
    神位許可1855(安政2年)正一位
神々廻鳥見神社

5 西国より移住?     清戸宗像神社

876年(貞観18年)創建  平安時代
裸で曝されている神殿
清戸宗像神社・神殿
 
清戸宗像神社・参道
極相林の中に長い見事な参道

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参考 2

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市内氏神様の指定文化財

平成21年1月10日現在
所在指定年月日
白井鳥見神社石造鳥居建造物白井391-8昭和59年3月24日
木 鷲神社 石造鳥居建造物木533
富塚鳥見神社 歓喜天有形民俗富塚694平成9年8月5日
富塚鳥見神社神楽用具有形民俗富塚826平成13年12月5日
富塚鳥見神社本殿他建造物富塚694平成17年9月16日
木 鷲神社本殿他建造物木533

白井鳥見神社石造鳥居
  • 白井鳥見神社石造鳥居
  • 創建 不詳 祭神 ニギハヤヒ
  • 正徳3年(1713)建設
  • 明神型 安山岩
  • 高さ288cm

  • 木 鷲神社石造鳥居
  • 創建 延宝5年(1677)
  • 祭神 アメノヒワシ
  • 宝暦9年(1759)建設
  • 明神型 安山岩
  • 高さ260cm
木 鷲神社石造鳥居

富塚鳥見神社 境内 歓喜天
  • 富塚鳥見神社 境内 歓喜天
  • 聖天と言われる仏の守護神
  • インドの神様 双身像
  • 明和8年(1771)奉納

富塚の神楽用具
 面 17面  衣装 39点  小道具 49点  お囃子衣装 8点  計 115点
富塚鳥見神社本殿
  • 富塚鳥見神社本殿 附棟札5枚玉垣1棟
  • 本殿文化9年(1812)建設
  • 庇柱に龍が巻き付く形で彫刻されている。壁三面は中国の古事二十四孝が刻まれる。

  • 鷲 神社本殿 附け棟札一枚
    玉垣 一基
  • 本殿 天保13年(1842)建築
  • 大工北方村松丸周蔵
    彫刻後藤市造
  • 棟札天保13年(1842)
    玉垣宝暦8年『1758』銘

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清水口  坪井 敏
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