白井の水神様

坪井 敏

1 はじめに

白井に棲みはじめて27年目、当初より散策好きの私は四季それぞれの白井の自然と共棲し且つそれを満喫した生活を送って来ました。この四半世紀、都心にアクセスが出来た白井は劇的な変化遂げました。何処にでもあった自然は今度は捜さなければなくなり、増えたものは耕作を放棄した休耕田や畑、資材置場そして低層・高層の住宅地。今迄は良い環境造に貢献していた地域が一転して環境悪化をもたらすようになった。

今回取り上げた水神様は「五穀成就」「風雨順時」素朴な農民の祈りにより建てられた物であり集落の物、個人の物、移転を余儀なくされた物、失われた物、新しく建立された物等多岐にわたっていて全ては把握することは出来ない。結果は分かる物の列記に終わったが、多くを白井町石造物調査報告書(白井町教育委員会 平成元年発刊)拠ったが、この20年間にも捜しても分からないものも生じた。


2 水とは

1) 水と生命

水はあらゆる生命の生成と存続にとり不可欠の存在であるから超自然的なものと見なされており、水に拘る自然現象である、雨、泉、川、瀧、池、海を神として敬われている。日本最古の歴史書『古事記』にも水を司る神としての記述があり、雨を降らせたり止ませたり、降った水を地中に一度は蓄え少しずつ地表に湧出させる体系そのものを自然現象、神の司るものと考える。

2) 世界の水信仰

日本ほど水に恵まれていない地域でも水に対する信仰は強い、エジプトのナイルを支配する神ハピ、ギリシャ神話に登場する海の神ポセイドン、ローマの海洋神ネトウヌス等が知られており日の神に次ぐ高い位置を占めています。インドはじめ東アジア各国に尊敬されている水の神=竜神ナーガが広く知られており、さらにインドのガンジス川は不思議な清浄力を持つ信仰されておりはるか古代から現在まで沐浴する者、遺体を投棄する者が数多くいることで良く知られている。

3) 日本の水と神

日本でも水の持つ不思議な威力や霊力に対する信仰が古くより形成されており、水田稲作にとって水神は田の神として豊穣な恵みをもたらすものとして尊ばれ信仰され用水堰や田の畔に石碑として祭られている。又稲作地域外でも生活用水として飲料水を供給する井戸、泉、池、等や流水の洗濯場にも水神さまとして敬われ祭れる。水神の擬人化したものとして各地にあるのが河童伝説であり水神様が河童に姿を変えて現れたモノとして尊敬されている。また水神が形を変えたものとしては龍、蛇、ウナギ等が知られており特に蛇は東アジアでは水神の使者として知られている。

4) 竜神と水信仰

竜とも竜王とも云われた古来より中国から伝えられた想像上の動物で地中、水中に棲み時には空中を飛び稲妻を放ち雨を降らせる神として恐れられ敬まれている。竜神は日本の古来からの水神信仰に中国から伝来した竜信仰が習合して出来たと考えられる。元々蛇はその形状から異型の物として恐れられて聖書でも神の使いとして登場しギリシャ神話にも商売の神様として敬われており同じ形状の竜も神として扱われ竜巻も竜神が天に昇るのだと信じられている。市内の神社の柱には竜の形の彫り物が彫られ奉納されている。

5) 弁財天と水神

弁財天は仏教では天部の女神であるが元来はヒンズー教の川の神サラスヴァテイが替わったモノでありインドでは水の神として尊敬されている。又日本の水の神は古代より女神であり海に係わる宗像、厳島神社の祭神である市杵島姫命はとりわけ美人で技芸に優れており弁財天と習合し同体視され全国の水に関係する海、湖沼等水辺に勧進された。


3 白井(下総台地)の地形と地質

白井の地は関東平野の南部に位置し幾度かの海進、海退を繰り返しながら箱根・冨士山噴火の火山灰の堆積により海時代に形成された成田層と言われる貝化石砂層の上に赤土の関東ローム層が広く覆われている。白井も含まれている下総台地の地形は標高が30M位を最高に樹枝状に入り込んだ手賀沼、印旛沼に流れる小河川とその支谷からなっている。土地の利用形態は印旛水系の神崎川(含む二重川)及び手賀水系の金山落とも低地は水田、脊土地は森林、耕地として利用され、江戸時代には幕府直轄の牧場である小金牧(市内には中野牧、印西牧)が置かれ馬産地として利用、昭和になり梨畑に変わった。

台地に入り込んだ谷地の源頭には湧水が見られ昔の人々は湧水を利用して農耕をしながら生活し住み着いたと思われる。


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4 白井の住民と生活

谷津の豊な湧水を利用して人々は古くから棲み付き河川の段丘に位置する所に数々の遺跡が見つかっている。手賀沼水系では寺向、向台II、印旛神崎川水系では一本桜、復山谷、清戸、等の集落跡遺跡が見られる。時代は下り江戸時代になり大名、旗本など武士階級が名主を使い農村を支配するようになり村は名主が支配し運営する時代が続いた。又この時代は農耕技術が進歩し丘陵地や牧場は開拓、湖沼は干拓で数多くの新田を作り上げて人口増に対応していた。


5 白井の水系誌

大正2年(1913年)刊行された印旛郡誌によれば永治村の頃には山林、原野等の窪地より集合せる細流が手賀沼に注ぐもの数條あり、谷清村の頃は澤山の池及び清戸弁才天より発し神崎川に至る流域あり、白井村の頃には神々廻に弁天池、折立には八幡池、法目にも弁天池、七次にも用水用溜池、川には鎌ヶ谷村に源を発し西北に流れと七次の溜池より発した流れと合流神崎川となり印旛沼に至るとあり、同じく大正8年(1919年)発刊の千葉県誌には白井の河川としては神崎川のみ記され白井村大字根字溜に発し北流して橋本に至り、流れを東南に転じ印旛沼に入るとあるとの記述あり。


6 白井の水神分布(弁財天、龍神含む)

但し現在存在している場所であり当初からあった場所とは限らない
名称は通常住む人は弁天様、水神様としか言わないので地域名を付した
番号所在形状材質創建時期所在場所
1-1白井木戸弁天根字上谷津社殿鳥居灯篭池不明 昭和50年競馬学校裏
1-2野口弁天木字野口石祠 砂岩宝暦 1751年愛宕神社
1-3折立弁天折立字前田石祠、池 砂岩不明R16号南北
1-4中弁天中字中台覆屋 石祠、池寛政5年1793年薬師堂
1-5*井戸神河原子石祠大正12年河原子路傍
1-6神々廻弁天神々廻字新駒社殿鳥居、池不明厳島神社
1-7白井弁天白井字中間戸社殿鳥居、池元文3年1783年みたらい池
1-8城跡弁天神々廻字花発込石祠 砂岩宝暦5年1756年神々廻山裾
1-9清戸雷神清戸溝桁石祠 砂岩文化13年1816年宗像神社
1-10清戸の泉(弁天)清戸字清戸山社殿鳥居、池大同年間 809年船橋CC内
1-11澤山の泉(弁天)谷田字澤山石祠、池 砂岩文政12年1829年R464傍
1-12谷田弁天谷田字東住石祠、池享保10年1725年西福寺
1-13谷田雷神谷田字八幡下石祠 砂岩明治22年八幡神社
2-1富が澤弁天復字富が澤下石祠不明光明寺
2-2池の上弁天復字中峠石祠寛延4年1751年香取神社
2-3法目弁天復字道祖神下社殿鳥居、池不明八幡神社前
2-4おかめ石白井字鳥居前石祠 駒形明神文政3年1820年白井庚申塚
2-5*上長殿水神復字和田石祠 砂岩弘化5年1848年復観音堂?
3-1*富塚弁天富塚字上石祠 砂岩天保9年1838年西輪寺
3-2富塚弁天由来富塚字上石碑 安山岩天保10年1839年西輪寺
3-3今井水神今井字稲荷前石祠文化4年1807年稲荷神社
3-4榎台水神平塚字榎台石祠大正5年1916年榎台小森道
3-5*中台水神平塚字中台石祠
3-6北口水神平塚字北口石祠安政6年1859年鳥見神社
3-7本郷弁天平塚字富の下社殿、池霊園入口
* 未確認
注1)1 利根印旛水系    神崎川の本流
2 利根印旛水系    二重川(神崎川の支流)
3 利根手賀水系    金山落し

注2)水関連の神仏像
1 弁財天立像仏法寺江戸時代
2 弁財天坐像清戸薬王寺江戸時代
3 弁財天及び十五童子像富塚西輪寺江戸時代
4 弁財天及び十六童子像折立来迎寺江戸時代

7 白井の水神(弁天、龍神含む)分布図

白井の水神(弁天、龍神含む)分布図

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8 白井の水神(弁天、龍神含む)の詳細

1 神崎川本流水系(印旛沼利根川系)

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印旛沼に注ぐ神崎川の最上流部は江戸時代には小金牧の一つの中野牧に位置し天領で人は住まず馬の水飲み場があったとしても水神は祭られていないと思われる。

1-1) 白井木戸弁天根字上谷津

白井木戸弁天
  • 水源より1.3キロ牧の外にあり
  • 社殿春日造
    2間 x 2間
  • 鳥居明神形
    大小 2基
  • 燈篭左右に2基
    大小 2基
  • 何れも平成14年建立
  • 船橋市湊町2-11-10
  • 石川喜代他

この辺りは八幡溜と言われ七次の岩佐弘美さんの話によれば昔溜池があり 魚を取ったり泳いだりしたとの事。古い地図にも湖沼の記号があるが日本競馬会白井分場建設等で破壊され現在はない。八幡溜は名馬「いけづき」生地の話として知られ、そこにあった八幡神社は大正年間に大日神社に合祀され、八幡の名は根の字名と公園に残るのみ。中央競馬会の競馬学校に隣接している。


少し下流に七次川が西より合流しているが、水源はじめ全域がニュウタウン住宅地になり地形も変わり清水口調整池が有るが痕跡は見つからない。

1-2) 野口弁天木字野口

野口弁天
  • 製作年代   宝暦元年
    質   
    法   60 x 40 x 20cm
  • 所沢 押田さんの話では七次台中がある辺りに湧水口があり
  • 傍ら石碑があったと記憶してる。
  • 造成時に移転か

1-3) 折立弁天折立字前田

  •  
  • 折立7弁天のNo. 1弁天
  •  
  • No.1、 No.2は国道16の北側
  • No.3~No.7までは南側上流部
  • 湿地で榛の木が生えており
  • 近づく事は冬季で草マントが無い時でも困難
折立弁天
  • 石造物調査データーない

1-4) 中弁天中字中台

中弁天
  • 中薬師堂裏
  • 石碑   40 x 12 x 25
    材質   砂岩
    覆堂   80 x 80 x 90
    用地   約180m
    窪地   水は枯れてナシ
    樹木   
  • 榎の大木、コブシ、エゴ

1-5) 井戸神河原子

捜すも見つからない

1-6) 神々廻弁天(神々廻厳島神社)  神々廻字新駒

神々廻弁天
  • 鳥居   1基
    社祠(除く台座)
     96cm x 92 x 190
    祠内   不明
    境内   市内最大

1-7) 白井弁天(みたらし様)白井字中間戸

白井弁天(みたらし様)
  • 社地は白井橋本の聖地
  • 五穀豊穣・無病息災
  • 池の水は眼病に効能
  • 鳥居
  • 狛犬
  • 社殿
  •  
  • 池畔のヤブツバキの根元より湧水があったと言われた。

1-8) 神々廻城跡弁天神々廻字花発込

  •  
  • 石祠 弁財天 宝暦6年 1756
  • 砂岩 45 x 29 x 15
  • 道から外れた山裾 昔は湧水?
神々廻城跡弁天

1-9) 清戸雷神清戸字溝桁

清戸雷神
  • 宗像神社境内 石祠
  • 砂岩 47 x 17 x 12
  • 文化3年 1816年
  • 社殿東側 台座より落ち倒伏していた

1-10) 清戸弁天(薬王寺)  清戸字清戸山

清戸弁天
  • 県指定文化財 清戸の泉
  • 清戸の薬王寺管理
  • 船橋カントリークラブの中
  • 池の角に湧水あり
  • 雨乞いの伝説と彫られた版木あり(県指定文化財)
  •  
  • 鳥居があり池の中ノ島に社殿
  • 社殿の中は不明

1-11) 澤山弁天谷田字澤山

澤山弁天
  • 澤山の泉として現在も湧出
  • 製作文政12年
    (1829年)
    材質砂岩
    寸法48 x 24 x 14(古)
  •  
  • 新作と古いのあり

1-12) 谷田弁天(西福寺)  谷田字東住

谷田弁天
  •  
  • 谷田弁天
  •  
  • 池の前に蛇塚と並び立つ
  • 道路の拡幅により移転か
  • 安山岩 入母屋型
     70 x 22 x 29
  • 記録は2個あれど1個しか見当たらない

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2 二重川水系(印旛利根川水系)

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神崎川の支流 源を鎌ヶ谷市南初富と船橋市八木ヶ谷から北流して白井市復で本流と合す、開発の速度が本流より速く水量も多く、護岸の改修も終わっている。

2-1) 富が澤水神復字富が沢下

富が澤水神
  •  
  • 富が澤個人宅
  • 新しい水神
  • 2基 光明寺境内
富が澤水神

2-2) 池の上弁天(香取神社)  復字中峠

池の上弁天
  • 弁天石碑
  • 寛延4年(1751年)
  • 材質   安山岩
    寸法   
  •  
  • NT造成時に移転?

2-3) 法目弁天復字道祖神下

法目弁天
  • 弁天像 額に木彫り
     40w x 50l
  • お堂 162 x 130 x 400
  • 鳥居
  • 境内約 600m²
    樹木

2-4) おかめ石白井字鳥居前

おかめ石
  • 白井庚申塚群の最南に位置
  • 駒形明神の碑の扉
  • 文政3年 1820年
  • これをひっくり返すと雨がふるといわれたとか
  • 日照りの年には村人が雨乞いをしたとか いわれる。
  • (高花宏之さん教示)

2-5) 上長殿水神復字和田

観音堂周辺なれど 見つけられない

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3 金山落水系(手賀沼利根川水系)

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鎌ヶ谷市初富を源にして北流して手賀沼に注ぐ河川のひとつ

3-1) 富塚弁天(西輪寺富塚七弁天)  富塚字上


3-2) 富塚弁天由来石碑(富塚西輪寺旧池の中)

富塚弁天由来石碑
  • 昔は門前の池の中にあったと言われる
  • 池は埋められ凹凸なし
  • 石碑 安山岩 天保10年 1839年
  • 弁天石祠も同所にあったと記録捜しても見つからない
  •  
  • 富塚の七弁天 寺がはじまりで村の中に7箇所の弁天が散在したと言われる。個人敷地なので入れず確認できない

3-3) 今井水神(今井稲荷神社)  今井字稲荷前

今井水神
  • 今井稲荷神社境内
  • 新、古が直列に並ぶ
  • 古 50 x 21 x 14
  • 古 文化4年
  • 1807 年 新 最近

3-4) 榎台水神平塚字榎台

榎台水神
  • 平塚榎台より小森に向かう路傍の上
  • 湧水の出ている地点4里より外れた高い斜面
  • 旧2基の中に新水神
  • 旧砂岩 36 x 16 x 12
  • かつてあった場所から移動?

3-5) 中台水神平塚字中台

1水神   砂岩駒形29 x 21 x 9   大正6年
2水神   凝灰岩角柱   35 x 20 x 10   不明
個人所有か見つからない 個人宅に所属するものはかなりある。

3-6) 北口水神石碑(平塚鳥見神社)  平塚字北口

北口水神石碑
  • 建立安政6年(1859年)
    材質砂岩
    寸法50 x 25 x 15

3-7) 平塚弁天社(霊園入口)  平塚字富の下

平塚弁天社
  • 大堤谷津の先端
  • 霊園入口の左側
  • 寺田家の管理
  • 覆い堂 140 x 125 x 150
  • 弁天像
  • 石碑   60 x 36 x 80
    境内   池120
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9 おわりに

白井は昭和40年までは交通の便は松戸、下総中山に出るバス便しかなく都心より30Km圏にあっても自然豊な農村であった。しかし工業団地の造成、国道16号線の開通そして新住宅市街地開発事業(ニュータウン法)による開発ですっかり変ってしまった。農耕の願いのシンボルであって古来から素朴な信仰の対象であり、先祖から受け継いできた水神様は尊重されなくなり忘れ去られてしまった。かつては敬虔な気持ちで崇拝した山の神、田の神そして水の神は道路の拡幅、地目の変更等であるべき場所に無く、運の良い者は寺社の境内に移されたが地中に埋められたものも多数あったと思われる。今回の調査は昭和末期に行われた教育委員会の石造物調査報告に資料を求めたが水神様は集落全体から、数軒のもの、個人家もの、先祖から受け継いだもの新しく設置等多数あり、全てを把握するなど出来ない。聞き取り調査の際には「おらがにもある」と言う人にも多数出合ったがその神様も田畑の荒廃と共に失われていくのはまちがいない。水神様に限らず地域社会で祈られ尊ばれていた素朴な神様たちはどうなってしまうのか?農耕の神が農耕がなくなれば無くなるのは仕方が無いかもしれない。最近規制緩和の名によりミニ開発が再び進み住人を含めて動植物は変わり、素朴な神様達が次々と消えていく事は時代の流れとは言え悲しい事である。

最後に今回私の拙い調査に協力して下さいました市民の方々、特にいろいろ教えて戴きました白井市役所文化課高花宏行氏に厚く御礼申し上げます。


参考文献

白井町教育委員会「白井町石造物調査報告書」全4巻1989年
三橋健編「日本神様辞典」1975年
千葉県編「千葉県誌」1919年 復刻 1984年
印旛郡役所「印旛郡誌」1913年 復刻 1987年
鈴木普二男「白井町の文化財ノート」1984年
鈴木普二男「白井町文化誌」1979年
鈴木普二男「白井の文化遺産史」2004年
白井村編「村のあゆみと姿」1960年 復刻版2003年
白井市教育委員会 「白井市の仏像」2005年

路傍の名も無き田の神
  • 路傍の名も無き田の神
  • 平塚 吾妻下にて
2006年12月20日    坪井 敏
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