仔犬の傷に焼酎をぶっ掛けた頃、我が家でお世話をしていた身体に障害のあるハシブトガラスのガーコが亡くなりました。生前には獣医師のセキ先生にとても世話になりました。そのセキ先生に、河原のそばの公園にひどい怪我をした野良犬がいると相談したところ、「そのままでは死んでしまうかもしれないからすぐに連れてきて下さい」と即答されたので、数日後、私は公園に怪我をした仔犬を迎えに行きました。
仔犬の為とはいえ、焼酎をぶっかけて痛い思いをさせたので、私の顔を見たら逃げるかもしれないと思いながらパジェロを転がしました。公園に着き、辺りを見渡しても犬たちの姿はありません。警戒して、もう私のそばには来ないだろうなと思いながらも河川敷に向かって大声で「お~い、居るか?」と叫びましたが何の反応もありません。しょうがない、帰るかと車に乗ろうとした時でした。土手のはるか彼方から物凄い勢いで駆けてくる犬の姿が見えました。「あのワンちゃんだ!」とすぐにわかりましたので私は土手の上にあがり仔犬を待ちました。顔を見て、傷口を確認し、「おい大丈夫だったか?痛い思いをさせてゴメンな。家に来るか?」と話しかけると、仔犬は「ウ~ウ~ウ~ン」と、待っていましたとばかりにハイテンションで尻尾を振りました。車までついて来たので「じゃ、行こう!」と助手席側のドアを開けて乗せようとすると、急に尻尾を下げて後足の間に入れてしまいました。不安そうな顔になり、私の顔をじ~っと見て、「乗れないよ」といわんばかりの表情をしたので、私が「家に行かないのか?」と聞くと、しぶしぶ車に乗りました。でも、車が動き出すと「やっぱり降りる!」とばかりに窓から身を乗りだし、出ようとします。落ち着きが無く不安そうなので、私は運転しながら一方的に色々と話しかけることにしました。すると、仔犬はだんだんと落ち着いてきました。
5分くらい走った頃でした。仔犬は乗り物酔いをしたらしく急に吐いてしまいました。気持ち悪そうにしていたので10分ほど休み、5分ほど走っては10分休むことを繰り返し、仔犬の体調をごまかしながら獣医師のセキ先生のもとへ急ぎました。その時吐いた内容物はカエルの未消化の骨と草でした。動物病院に着くなり仔犬は体をガタガタと震わせて「助けてくれ」と言わんばかりに私に目で訴えました。「大丈夫だよ。怪我、治そう。」と言うと理解したのか諦めたのか徐々におとなしくなり、私もホッとしました。
仔犬は病院で引き取るとセキ先生が言ってくれたのですが、私はすぐに家族と相談し、我が家で引き取ることにしました。精密検査や怪我の治療、予防接種などが一通り終わり、その日のうちに先生から電話がありました。「怪我はかなり重症ですが焼酎で消毒するという適切な判断がよかったのでしょう。治りかけており4針縫っておきました。体は健康体ですが少し肝臓が悪いです。まだ落ち着かないので一晩預かりましょう。」との事でした。
翌日、病院に行き「ワンちゃんの様子はどうですか?」と尋ねると、セキ先生が詳しく話してくれました。「治療と検査は、おとなしくさせてくれました。でも、夜になると落ち着きが無くなったので私が抱いて寝ました。なので仔犬も私もちょっと寝不足です。このワンちゃんはハスキー犬と柴犬のミックス犬ですね。毛色はハスキー犬で毛の長さは柴犬で体格はちょうど真ん中ですね。おそらく狙って交配された犬だと思いますよ。」とのことでした。私が思っていたのもそのような感じでした。おそらく、左右の瞳の色が違うので捨てられたのでしょう。仔犬を捨ててしまえる人の気持ちが私にはわかりませんでした。
仔犬を我が家の一員として迎え入れると決めたのですが、気掛かりがありました。これまで自由奔放に生活をしていたワンちゃんなので、これから首輪を付けられ鎖につながれてストレスが溜まらないか、とても心配だったのです。ですが、セキ先生に相談すると、「心配することはないですよ」と言ってもらえました。「一晩しか一緒にいませんでしたが、このワンちゃんはかなり賢いので、すぐに環境に慣れます。」とのことで、私はセキ先生の言葉にとても安心しました。その上、今回かかった費用は野良犬だから一切不要だと言うのです。せっかくのご好意でしたが、我が家で飼うことにしたのですから、とお願いをして治療費と他の費用の支払いを済ませて仔犬と一緒に我が家へと向かいました。この時の費用は12万円ほどだったと記憶しています。それを野良犬だから不要だというセキ先生の言葉には衝撃を受けました。川上家で飼われるのなら安心ですと言ってもらい、私も安心したのを覚えています。
仔犬を連れて帰り、名前を何にするか家族で話し合いました。姓名判断をして、先代のマルチーズと同じ名前の“ラッキー”と命名。“川上”の姓に“ラッキー”の名は、そこそこ相性が良くて呼びやすく、先代ラッキーが18年生きたこともあり決定したのでした。私は仔犬を前にし、「お前さんの名前はラッキーだよ」と挨拶しました。まだまだ不安げな様子のラッキー。とりあえずホームセンターで首輪と鎖、犬小屋を買い、ラッキーに首輪を付けてまずは様子見です。首輪は素直に受け入れてくれたので、とりあえず安心。鎖に繋ぐと多少そわそわしていました。犬小屋を見せて「ここがラッキーの家だよ。」と中に入れて様子を見ましたが、気に入らないらしく外に出てしまいました。中に入る気はまったく無しです。そのまま外におとなしく居たのですが、夜になり人の姿が見えなくなると心細いのか騒ぎ出しました。私はラッキーの鎖を外し2階の私の部屋へ連れてゆきました。
ラッキーは私が先に寝ると私の顔をなめて、起きろとばかりに前足で顔をそっと叩きました。私が声をかけ続けると、安心したのか朝まで眠りました。次の日もラッキーは私の部屋で寝ましたが、3日目からは、かなり慣れたというか、落ち着いたというか、とにかくそんな様子で私の車の下で寝るようになりました。一安心。ですが、相変わらず犬小屋へは入らず。これから寒くなるし、どうしようかと思い、私はとりあえずダンボールで小屋を作ってみることにしました。するとラッキーは喜んでそこに入ってくれて、満足げに中でゴロンと横になりました。ラッキーを一度ダンボール小屋の外に出して中にムシロと毛布を敷き、壁面にマットレスのスポンジを立てて防寒および補強しました。それを横でジーっと見ていたラッキーは、出来上がるとすぐに中に入り、毛布を前足でかいて横になりました。かなり気に入ってくれたみたいで、私が抱えて無理やり外に出すと、「ここが気に入ったの!」とばかりにすぐに中へ入ってしまいました。寒い時は毛布が大活躍でした。ダンボール小屋の周囲を毛布で二重に包み、中には追加で毛布を敷き、入り口にも毛布を垂らして寒さ対策を万全にしました。これもかなり気に入ってくれて、よく顔だけ出して寝ていました。
そんなこんなで、ラッキーは1ヶ月もたたずに新しい環境に慣れ、生まれた時から飼われていたかのごとく、おとなしい飼い犬となりました。ちょっと心配だったのは、ラッキーは無駄吠えどころか「ワン!」と吠えたことが一度も無かったことです。私はラッキーに「なんでお前さんはワンと言わないんだい?ワンちゃんなんだろう?」とよく話しかけていました。これは私の推測ですが、30匹ほどの野犬の群れの中に捨てられて育ったので、自分をかなり抑えて暮らしてきたのだと思います。理由は、私が声をかけるとすぐに腹を見せて服従のポーズをとったからです。縮こまって尻尾を振り「逆らいませんよ」といわんばかりでした。ラッキーにはいくつもの怪我の跡がありました。ほとんどが噛まれたような傷跡で、左前足首の傷跡は生涯治りませんでした。おそらく、野良の中にいるときには吠えるたびにいじめられたので、吠える事をしなくなったのだろうと思います。仔犬が野良の群れの中で生きていく手段だったのでしょう。ラッキーは「ワン!」と吠えないまま順調に人間との生活に慣れて川上家の一員となりました。
ラッキーは我が家に来るまでは自由奔放に土手などを駈けずり回る生活をしていたので、とにかく走らせてあげようと思い、近くの利根川河川敷に連れていくことにしました。車が苦手なので車酔いしないようにと、暇を見つけては様子を見ながら慣らし、車に乗せて土手まで行きました。最初の頃は乗るのを嫌がりましたが、乗れば散歩に行けることが分かるとだんだんと抵抗しなくなりました。車への適応は案外早く、2週間もしないうちに慣れて、しまいには土手行きを催促するようになりました。
初めて土手に連れて行って車から降ろした時には、捨てられたことを思い出したのか、私の顔を不安そうな顔でじっと見て動きませんでした。ラッキーはいつも目で訴えてきます。「大丈夫だよ。置いていったりはしないよ。」と言うと、私の言葉がわかったのか歩き始めました。すぐに嬉しそうに駆けずり回り、体をめいっぱい使って喜びを表現しているように見えました。車に乗ることを嫌がったのは、車に酔うというのもあるでしょうが、ひょっとしたら、また捨てられるという思いがあったのかもしれません。
数日後にはだんだんと散歩にも慣れ、歩いていると走りたがり、河川敷でリードを放すとなんと「車で一緒に走ってくれ」と催促されて車と一緒に走ることになりました。ラッキーが走るコースは2つあり、私が「芝コース」と言えばゴルフ場の芝を、「ダートコース」と言えば土手の上を走るようになり、その時の気分で走りました。「ダートコース」の時、私は土手の上を時速30km~40kmで距離にして5kmほど車で走り、ラッキーは土手を降りて利根川河川敷のゴルフ場の芝の上を全速力で走り、用水路の上の橋で待ち合わせるのがお約束でした。走るコースを自分で決められない時には私の顔を見て声がかかるのを待ちました。納得するまで走り、橋の上で待っている私と一緒に車に乗って帰宅するのでした。 車に慣れてからは、朝の散歩はお袋と一緒に私の車に乗り手賀沼近くで下りてお袋とラッキーとで家まで歩く。夕方は親父とお袋とラッキーで近所巡り。私が行ける時には利根川河川敷までパジェロに乗って行き、ふたりで散策。とにかくこの頃からラッキー中心の生活になったように思います。会話もラッキー中心といったところでした。