西暦 年 月 日 |
主な出来事
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1841年2月5日 |
中濱万次郎ら5名が鳥島に漂着した。その後、アホウドリを食べて143日間の無人島生活を送り、アメリカの捕鯨船に救助された。
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*1845年6月16日 |
イギリス軍艦スマラン号で尖閣諸島に立ち寄ったイギリスの東洋探検隊は、黄尾嶼で少数のアホウドリを観察した。 |
*1885年10月30日 |
沖縄県職員の石沢兵吾は、尖閣諸島魚釣島で数万羽のアホウドリが営巣していることを観察した。 |
1887年11月5日 |
玉置半右衛門ほか12名が鳥島に上陸し、鳥島の開拓に着手した。 |
1888年3月17日 |
玉置半右衛門は鳥島を借地して開拓する許可を日本国政府から得て
、その後、数多くの移住者を鳥島に入植させ、本格的にアホウドリの羽毛を採取し始 めた。 |
1888年4〜7月 |
探検博物学者服部徹が鳥島に滞在して調査し、アホウドリがおびただしい数で群生・繁殖していることを報告した(動物学雑誌,第1巻405-411頁,1889)。
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*1896年9月 |
日本国政府は古賀辰四郎に尖閣諸島を開拓する許可を与えた。古賀氏は
翌97年3月に魚釣島に、さらに98年5月には黄尾嶼に数十人を入植させ、アホウドリの羽毛採取を開始した。 |
*1900年5月10日 |
宮島幹之助は黄尾嶼で20〜30羽のアホウドリの小群を各所で観察した。
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*1900年5月12〜14日 |
黒岩恒は魚釣島でアホウドリのひなを多数観察した。 |
1902年8月7〜10日 |
鳥島で火山が大噴火(水蒸気爆発、爆発破裂)を起こし、島民125人が全滅した。これまでに、少なく見積もっても500万羽のアホウドリが犠牲になった。
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1903年 |
鳥島に29人が再移住し、羽毛採取を続けた。
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*1908年5月 |
恒藤規隆は、アホウドリが尖閣諸島の黄尾嶼で4カ所、魚釣島で2カ所で 細々と繁殖していることを観察した。 |
1910-11年 |
鳥類保護のため、羽毛の国際取引(貿易)が禁止された。 |
1918年4月2日 |
「狩猟法」の改正により「狩猟鳥獣」を指定し、それ以外の鳥獣の捕獲が禁止されることになった。
この改正以前には「保護鳥獣」が指定され、それ以外は捕獲可能だった(アホウドリは「保護鳥獣」に指定されてはいなかった)。 |
1919年8月16日 |
狩猟法施行規則の改訂(農商務省令第28号)により、アホウドリは「狩猟鳥獣」に指定された。 |
1922年 |
玉置氏は島民をすべて引き上げさせ、鳥島は無人島になった。 |
1927年9月16日 |
鳥島を再び開拓するため、奥山秀作によって再び移住が行なわれた。 |
1930年2月15日 |
山階芳麿博士が鳥島に上陸し、アホウドリの繁殖状況を調査し、約2
,000羽の成鳥と約200羽のひなを観察した。 |
1932年4月 |
山階鳥類標本館の山田信夫博士が鳥島に上陸し、数百羽のアホウドリを観察し、30羽(成鳥20羽、ひな10羽)のアホウドリにはじめて足環標識を装着した(4月9日)。
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1932年12月〜1933年3月 |
禁猟区指定の前に、駆け込みで約3,000羽のアホウドリが捕獲された。 |
1933年4月 |
山田信夫博士と日和三徳氏は、鳥島で数十羽のアホウドリしか確認できなかった。成鳥1羽とひな21羽に足環標識を装着した(4月9日)
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1933年8月13日 |
「アホウドリ保護」のため、鳥島は禁猟区(10年間)に指定された。 |
1936年4月23日 |
小笠原諸島聟島列島が「アホウドリ類の繁殖地」として禁猟区(10年間)に指定された。
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*1939年5月下旬 |
正木任は尖閣諸島に上陸して調査したが、アホウドリを確認するこ とはできなかった。
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1939年8月18日 |
鳥島が再噴火した。そのため、8月20日、島民は島を脱出した。のち
に火山から吐き出された多量の溶岩が集落をのみこみ、火山噴出物がアホウドリのコ ロニーに厚く堆積した。 |
1947年6月1日 |
中央気象台鳥島測候所が観測業務を開始した。 |
1947年9月9日 |
狩猟法施行規則の一部改正(農商務省令第72号)により、アホウドリが「狩猟鳥獣」から指定解除され、捕獲禁止となった。 |
1947年11月23〜31日 |
鳥島の燐鉱調査に同行した読売新聞社・東郷博記者らは3羽のアホウドリを観察した。 |
1949年4月9日 |
オースチン博士(連合国軍総司令部天然資源局野生生物科長)が伊豆諸島鳥島を船上から観察したが、アホウドリは1羽も見つからなかった。彼は、その直前の3月下旬に小笠原諸島聟島列島を調査したが、アホウドリは発見されなかっ
た。そのため、「アホウドリ絶滅」を学術雑誌に発表した(Pacific Science, 3:
28 3-295, 1949)。 |
*1950年3月28日〜4月9日 |
琉球大学の高良鉄夫教授は尖閣諸島の生物相の調査を行なったが、アホウドリを発見することができなかった。 |
1951年1月6日 |
山本正司氏(中央気象台鳥島測候所長)によって、鳥島の燕崎で10羽
ほどのアホウドリが生き残って繁殖していることが再発見された(中央気象台測候時報,第21巻232-233頁,1954)。 |
*1952年3月27日〜4月28日 |
高良鉄夫教授は尖閣諸島を再調査したが、アホウドリは観察されなかった。
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1952年10月1日 |
鳥島測候所が鳥島気象観測所に改称された。 |
1958年4月25日 |
アホウドリは国の天然記念物に指定された。
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1960年5月 |
アホウドリが国際保護鳥に指定された。
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1962年4月19日 |
アホウドリは国の特別天然記念物に格上げ指定された。
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1962年4月 |
山階鳥類研究所によってアホウドリのひな10羽と若鳥1羽に足環標識が装着された(以後、1965年4月まで継続され、ひな32羽に標識)
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*1963年5月15〜21日 |
高良鉄夫教授は3度目の尖閣諸島調査を行なったが、アホウド
リはついに観察されなかった。 |
1965年5月10日 |
鳥島がアホウドリの繁殖地として天然記念物(「天然保護区域」)
に指定された。 |
1965年11月 |
鳥島で強い地震が群発したため、火山の噴火をおそれて、11月16日に気象観測所は閉鎖され、所員は全員撤退し、鳥島は無人島にもどった。
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*1970年11月19日〜12月12日 |
九州大学・長崎大学探検部の合同学術調査隊が尖閣諸島の上陸調査を行なったが、アホウドリは確認されなかった。
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*1971年4月1日 |
琉球大学の池原貞雄教授らが、尖閣諸島の南小島でアホウドリの成鳥・若鳥あわせて12羽を観察し、尖閣諸島でこの種を再発見した。 |
1973年4月29日 |
イギリス人鳥類学者ティッケル博士がイギリス海軍の協力によって
鳥島に上陸し(5月4日まで滞在)、アホウドリのひな24羽と成鳥25羽を観察した。 |
1973年5月7日 |
ティッケル博士は帰途、京都大学理学部動物学教室に立ち寄り、大学院生だった長谷川博と偶然に出会い、彼に強い刺激を与えた。
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1973年10月〜74年5月 |
日本放送協会のテレビ取材チームが5回にわたって鳥島に上陸
し、アホウドリの生態について映像取材を行なった。この繁殖期に11羽のひなと62羽 の成鳥・若鳥が観察された。
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1976年11月17日 |
長谷川博はアホウドリの繁殖状況の調査を再開した。この時は上陸できず、燕崎の沖の船上から成鳥・若鳥あわせて69羽を観察した。 |
1977年3月20〜22日 |
長谷川博は鳥島に上陸し、15羽のひなと71羽の成鳥・若鳥を観察した。 |
*1980年3月3日 |
池原貞雄教授はヘリコプターから南小島を観察し、成鳥28羽と若鳥7
羽、合計35羽を確認したが、ひなは確認されなかった。 |
1981年6月 |
環境庁・東京都は燕崎コロニー西地区にハチジョウススキとイソギクの株を移植する工事を行なった。
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1982年6月 |
環境庁・東京都は燕崎コロニー東地区でハチジョウススキ・イソギクの移植工事を行なった
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1985年4月 |
保護計画が成功を収め、繁殖成功率は70%に引き上げられ、51羽のひなが巣立った。
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1987年秋 |
燕崎の斜面で地滑りが起こり、土石流となって海岸まで流れ下った。 |
*1988年4月13日 |
朝日新聞社の小型ジェット機から南小島の断崖で繁殖しているアホウドリを観察し、少なくとも7羽のひなの存在を確認した。
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1988年秋 |
土石流のあとに泥流が発生して、燕崎コロニーの西地区に流れ込んだ。 |
1990年3月 |
長谷川博は、「従来コロニーの保全管理」と「デコイと音声再生による新コロニー形成の人為的促進」を、アホウドリ保護基本構想として、環境庁に提案した。 |
1990年9-12月 |
内山春雄さんがアホウドリのデコイの原型をボランティアで製作した。 |
*1991年3月28日 |
長谷川博はフジテレビ取材チームに同行し、尖閣諸島南小島でアホウドリのひな10羽と成鳥18羽を観察した。
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*1992年4月29日 |
長谷川博は朝日新聞社の尖閣諸島取材に同行し、南小島でアホウドリのひな11羽を確認した。
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1991年夏 |
西尾製作所はデコイの原型から鋳型をつくり、プラスチックのレプリカを
量産して着色し、多数のデコイを完成させた。 |
1991年11月 |
長谷川博は山階鳥類研究所と共同でデコイ10体を鳥島に運びこみ、燕崎
コロニーでデコイの誘引効果について予備実験を行なった。 |
1992年4月 |
鳥島北西斜面の新コロニーの予定地で、デコイ16体を用いて誘引効果を
実験し、デコイと音声再生の有効性を確認した。 |
1992年秋 |
環境庁はアホウドリを「種の保存法」の対象種に指定して、燕崎の従来コ
ロニーの保全管理と北西斜面の新コロニー形成を並行して推進する方針を固めた。 |
1992年11月 |
合計41体のデコイを鳥島の北西斜面の中腹に設置した。
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1993年3月 |
デコイを追加して50体とし、音声再生放送装置(三洋電機製)を作動さ
せ、新コロニー形成のための「デコイ作戦」が本格的に始められた。 |
1993年7〜9月 |
環境庁・東京都は燕崎の従来コロニーを保全するために大規模な砂防工事を実施した
(以後、2004年まで 毎年6月に砂防と植栽を軸とする保全管理工事を実施)。 |
1995年11月 |
新コロニーで1組のつがいが最初の卵を産んだ。
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1996年6月 |
この卵から誕生しひなが成長して巣立った。新コロニー形成の第一関門
を突破した。 |
1997年9月18〜28日 |
アラスカ海域でタラ類・オヒョウなど底魚の延縄漁業によって
アホウドリが「混獲」されたため、アメリカ魚類野生生物局は混獲防止と漁業規制を議論するのワークショップを開催した。この会議に参加するため、長谷川博はシアト
ルとアンカレッジを訪れた。 |
1998年5月 |
従来コロニーで繁殖成功率が67%に回復して、129羽のひなが巣立ち、新コロニーからは1羽が巣立った。
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1998年10月 |
新コロニー形成の足踏み状態を打開するため、デコイを94体に増やし、
忠実な音声を放送することができる再生装置(三洋電機製)を設置した。 |
1998年11月 |
従来コロニーで212個、新コロニーで1個、合計213個の卵が生まれた。
産卵数がはじめて200個を超えた。 |
1999年5月 |
従来コロニーで142羽、新コロニーで1羽、合計143羽のひなが巣立ち、鳥島のアホウドリの総個体数は推定で1,000羽を超えた。
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2000年8月1日 |
アホウドリは、アメリカ合衆国連邦政府の「生物種保存法」(Endang
ered Species Act, 1973)の絶滅危惧種に指定された。 |
*2001年3月6〜7日 |
長谷川博は朝日新聞社のヘリコプターで尖閣諸島を調査し、南小島で24羽のひなを観察し、その他に南小島で成鳥・若鳥をあわせて少なくとも77羽、
北小島で2羽の成鳥を観察した。アホウドリの営巣範囲が南小島の断崖中段の岩棚からその頂上部の斜面に拡大していることを確認した。 |
*2002年2月25〜27日 |
長谷川博は沖縄テレビ取材チームに同行し、尖閣諸島の南・北小島でアホウドリのひな33羽と成鳥・若鳥あわせて81羽を観察し、個体数の増加を確認した。また、北小島でひな1羽を観察し、営巣区域が南小島から隣の北小島に拡大したことを確認した。
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2002年8月11日 |
鳥島が63年ぶりに小規模な火山噴火を起こした(噴火活動は9月初め
に終息した)。 |
2002年11月 |
アメリカ合衆国内務省魚類野生生物局「アホウドリ再生チーム」の第1回会合がハワイのカウアイ島で開かれ、「アホウドリ再生基本計画」の草案がまとめ
られた。 |
2004年5月 |
「アホウドリ再生チーム」の第2回会合が日本でもたれ、小笠原諸島に第3繁殖地を形成する計画が決定された。
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2004年8月 |
ウルグアイのモンテビデオで開催された国際アホウドリ・ミズナギドリ
会議のワークショップで、小笠原諸島第3繁殖地形成の構想と方法が詳細に議論され 、その後に催された「アホウドリ再生チーム」の第3回会合で、「ひな移住計画」がまとめられた。
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2004-05年繁殖期 |
新コロニーで4組のつがいが産卵し、4羽のひなが巣立ち、新コロ
ニーが確立した。開始から12年かかって「デコイ作戦」に成功した。 |
2006年11月 |
新コロニーで24組のつがいが産卵し、鳥島全体では341組が産卵した。
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2007年5月 |
新コロニーから16羽、全体で231羽のひなが巣立った。巣立ちひなの数が
はじめて200羽を超し、鳥島集団の総個体数は推定で約1945羽に回復した。 |
2007年11月 |
従来コロニーで343組、北西斜面の新コロニーで35組、燕崎崖上で4組、
合計382組が産卵した。 |
2008年2月19日 |
小笠原諸島に第3繁殖地を形成するため、鳥島の従来コロニーから10羽のひなが聟島に運ばれ、5月まで人の手で野外飼育された。
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2008年5月 |
鳥島から合計270羽のひなが巣立ち、鳥島集団の総個体数は推定で約2140羽になった。
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2008年5月 |
聟島で野外飼育された10羽すべてのひなが巣立った。
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2008年8月 |
南アフリカのケープタウンで「アホウドリ再生チーム」の第4回会合が開
催され、今後の保護方針と保護事業計画が議論された。 |
2008年9月 |
8月の国際会議のときに開催されたアメリカ魚類野生生物保護局・アホウドリ再生チームの会合での議論をもとにして「アホウドリ再生基本計画」(US
Fish & Wildlife Service, Short-tailed Albatross Recovery Plan)が改訂され、公表された。 |
2010年11月 |
北西ハワイ諸島ミッドウェー環礁で鳥島生まれのアホウドリのつがい1組(雄24歳、雌8歳)が初めて産卵した。 |
2011年6月 |
ミッドウェー環礁で生まれたアホウドリのひなが、東日本大震災で発生した巨大津波を乗り越えて、無事、巣立った。これは、日本列島以外で近年初めての繁殖記録である。 |
2011年12月 |
鳥島で少なくとも512組のつがいが産卵した。1979年11月に繁殖つがい数は50組だったので、32年間で約10倍に増加した。 |
2012年5月 |
2008年2月から5年計画で進められた、鳥島から小笠原諸島聟島へのひなの移動と現地での野外飼育が終了した。合計70羽のひなが運ばれ、69羽が海に飛び立った。 |
2012年8月 |
ニュージーランドのウェリントンで開催された第5回国際アホウドリ・ミズナギドリ会議に出席し、鳥島集団の繁殖つがい数が500組を超え、総個体数は約3000羽となったことを報告した。 |
2012年11月 |
小笠原諸島聟島で、鳥島から運ばれて巣立った5歳の個体(雄:2007年11月に産卵、08年5月に巣立ち)と、聟島に頻繁に飛来し自然に定着した個体(雌:足環なし)がつがいになり、初めて産卵した。 |