東邦大学医学メディアセンター
本文へジャンプ 更新日2010.03.29

 

医学メディアセンター展示会


医学メディアセンター展示会の趣旨

 医学メディアセンターでは、1990年4月より「図書展示会」を年に数回開催し、毎回タイムリーなテーマで所蔵資料を展示し皆さまにご覧いただきました。しかし近年、メディアセンターで取り扱う”資料”やその環境が、メディアの変化などに伴い急速に変化してきており、今回第50回を迎えるにあたって「医学メディアセンター展示会」と改称し、さらに展示を充実させていくことに致しました。
 今後は、展示会を情報発信の一つの場として捉え、メディアセンターに所蔵している図書だけではなく、展示テーマに関する多様な資料・情報源をご紹介していきたいと思います。
 ご覧になった方が新たな発見をしたり、何かのきっかけになるような場として活用していただける展示を作っていきたいと思いますので、テーマとして取り上げてほしいトピックスなど、ご要望がありましたら医学メディアセンターにお寄せ下さい。
 さらに展示会を意義深いものとして発展させていくために、今後とも利用者の皆さまのご協力をよろしくお願い致します。




【更新履歴】:What's New
 2010年3月29日:額田豊・晉先生著書の医学メディアセンター所蔵リストを作成しました


【50回 額田文庫 2009.1.26-2.28】*終了しました*

会期:2009年1月26日(月)~2月28日(土)
場所:医学メディアセンター1階閲覧室、2階カウンター

 
 「額田文庫」は、本学創立者の額田豊、晋先生のご実家である額田家から寄贈された、おもに17世紀から19世紀にかけて出版された和装本43種類275冊からなる医学書のコレクションです。
 メディアセンターではコレクションをより多くの方々に利用していただくためにデジタル画像化を進めてまいりましたが、このたびToho Academic Archiveとして公開するのを機に、デジタルデータ、実物双方をご覧いただく展示会を企画いたしました。

 

 展示会では2部構成で、寄贈者である額田家・額田ご兄弟の紹介パネルと著書の展示、実物の古医書「額田文庫」の展示を行いました。また、会場に設置したパソコンでデジタル画像もご覧いただきました。

 

     【第一展示:額田家と額田兄弟】
       ・額田家の歴史
       ・故郷の医学事情
 

     【第2展示:額田文庫】
       ・種痘証明書

 
     会場での配布資料(このページのダイジェストです) 配布資料データ(PDF 569KB)

 
     デジタル画像「額田文庫デジタルコレクション」はこちら→ 額田文庫デジタルコレクションバナー

 

【第一展示:額田家と額田兄弟】
 本コレクションを寄贈された備前岡山の医家額田家と、本学創立者である額田豊先生、額田晋先生をご紹介し、著書もあわせて展示しました。

・額田豊(ぬかだ ゆたか) [1878-1972(明治11-昭和47)]
  明治11年,岡山県邑久郡の蘭医額田篤太の長男として生まれ,単身上京して独逸学協会中学校,一高を経て東京帝国大学で学んだ。在学中に父が亡くなり、残された母・弟・妹の一家を率いてきた。明治40~43年にはドイツに自費留学し内科学・医化学を研究した(ブレスラウ大学生理学教室化学部教室,翌年 ミュンヘン大学第二内科教室に所属)。
 留学中,日本における自然科学系女子教育の遅れを痛感し女子医学校開設を深く心に期した。帰国後には医学博士号を取得し,額田病院(麻布),額田保養院(鎌倉)を創設,肺結核患者に大気安静栄養療法を行った。大正14年に帝国女子医学専門学校(現 東邦大学医学部)を設立。戦後は被災した学校の再建に奔走し,東邦大学や日本大学医学科など諸学校の基礎を築かれた。

・額田晋(ぬかだ すすむ) [1886-1964(明治19-昭和39)]
 明治19年に額田家の次男として生まれた。東京帝国大学で学び優等で卒業したが、在学中はボート部の舵手としても活躍した。帝大附属病院助手となり,また薬物学教室において研究に従事し,大正7~8年 米国ハーバード大学に自費留学。医学博士を取得し帝大講師となったが,森鴎外の往診を行うなど臨床にも携わった。
 北京協和医学校に赴任した後帰国し、兄とともに帝国女子医学専門学校創設に尽力した。大正15年に理学博士を取得後、神田に額田内科病院、千葉県稲毛に額田医学生物学研究所を設立した。診療と研究・教育のかたわら,世界観研究会を主催し、科学的人生観・世界観を提唱した。この人生観は「自然・生命・人間」に著されており、東邦大学の建学の理念として今もいきづいている。



 豊先生、晉先生の代表的著書
額田豊
『醫化學講義』 金原商店,1910
『食品並ニ嗜好品化學的成分』 金原商店,1911
『腎臓炎と其養生法』  内科学雑誌社, 1912
『近世内科臨床診断學』 ―第21版(1951)まで改版発行確認 金原出版,1912→※第17版以降のタイトル:『診断學』(額田晋氏単独著)に変更を確認
『内科臨床診斷學』 -第17版(1949)まで改版 発行確認 金原商店,1912
『通俗衛生講話』  逓信省, 1914
『安價生活法』 政教社,1915 → 続編次タイトル:『絶對安價生活法 : 健康と節約の十三錢生活』(春陽堂書店,1939)
『通俗肺結核治療養生法』  新橋堂,1919
『近世醫化學』(上・中・下巻) 金原商店,1925 → 続編次タイトル:『新醫化學』(金原商店,1931)
『栄養料理の献立に就て』  逓信協会, 1926
『簡明内科學』(巻構成:上巻, 下巻) ―第8版(1936)まで改版発行確認 金原商店,1926 ※上巻のみ所蔵
『糖尿病ト其養生法』-第6版(1930)まで改版発行確認 内科學雑誌社, 1912
『胃膓病とその養生法』  康元社, 1934
『結核と其予防及び治療法:健民健兵の心構へ』 朝陽社, 1944
『額田家家記』  額田豊発行,1961

額田晋
『近世内科臨床診断學』 ―第21版(1951)まで改版発行確認 金原出版,1912→※第17版以降のタイトル:『診断學』(額田晋氏単独著)に変更を確認
『脈搏結滞之病理及其療法』金原商店, 1924
『内科類症鑑別診斷學』第3版(1931)まで版発行確認 金原出版,1925
『簡明内科學』(巻構成:上巻, 下巻) ―第8版(1936)まで改版発行確認 金原商店,1926 ※上巻のみ所蔵
『診断学要項:教科用』  金原商店,1927
『内科學要項』  金原商店, 1927
『臨牀藥理學』  改訂第7版まで改版発行確認 金原商店, 1928 
『額田晋氏に科學的人生觀を訊く』  有斐閣, 1934
『内科学』(巻構成:上巻, 中巻, 下巻)日本医書出版, 1937 当館では上巻のみ所蔵
『自然科學の發展』 北光書房, 1947
『肺結核の特殊転調療法』  金原商店, 1959
『人生観と断層』  鶴風会, 1950
『科学と共に』  近藤書店, 1951
『「リムルス」(ガブトガニ)の心臓機能に関する研究』 創元社, 1953
『正しい治療のための薬理学』金原出版, 1957
『自然・生命・人間』西川書店, 1959
『世界観』  西川書店, 1961


  額田豊・晉先生著書の医学メディアセンター所蔵リスト
 医学メディアセンター(大森地区)にある額田豊先生、晉先生の全著書は以下のExcelリストをご覧下さい。書名の他、どこにその著書が置いてあるのか等分かります。分からない事がありましたら、2F事務室もしくは1Fカウンターにまでお声をかけて下さい。
 



 






 額田家の歴史

 『額田家家記』1)によると、額田氏は元々、清和源氏新田義重の末裔で、義重の第五子経義は武蔵国足立郡額田邑(現埼玉県鴻巣市糠田)に住し、子孫額田を姓とした事が起源となっているとのことです。
 ただし、『額田晋』の“額田家系”2)によれば、15世紀の終わりに備前赤松家の武家として拠点が関東地方から現岡山県に移ったとのことです。その後16世紀までは武家の家系でしたが、戦乱の中、遺児が現在の岡山県赤磐市(旧赤磐郡赤坂町)で家を継いだことから、その後この土地で庄屋のような役を継ぐようになったと書かれてます。  
 江戸末期に8代目末弟の額田太仲氏(1809-1870,額田豊・晋氏の曽祖父に当たります)が大阪や京都で儒学や医学を修め、分家して長船町飯井で医業を始めたことで、その後、その息子,一中氏やその養子として額田家に入った篤太氏、また篤太氏の息子である豊氏、晋氏にも医学者としての遺伝子が引き継がれていくことになります。

1) 「額田家家記」 額田豊 1961
2) 「額田晋-自然・生命・人間」 西川書店 1972



 故郷の医学事情

 故郷である岡山県では、医学界において多くの著名人を輩出しており、日本最初の内科書『西説内科撰要』を訳述した宇田川玄随や、日本人として最初に牛痘接種を行ったばかりでなく1849年大坂に「除痘館」を設立し天然痘予防活動に力を尽くした緒方洪庵、額田豊/晉氏の曽祖父である一中氏も学んでいた医学塾の思誠堂塾の創設者の難波抱節,肝臓ジストマ(肝吸中症)の発見者である石坂堅壮等が岡山県出身の医学者です。
 なお、「除痘館」が創設された翌年の1850年には岡山県足守町(現岡山市)に除痘館の分館である「足守除痘館」が設立され、難波抱節や守屋庸庵等、“緒方洪庵の門弟”等により県内において種痘が行われました。
 また、明治維新の2年後である1870年には、岡山藩医学館及び病院が設立され、西洋医学教育が開始します。後に1922年に岡山医科大学と名称を変更致しますが、第二次世界大戦以前では中国・四国地方における唯一の医科大学でした。なお、こちらの岡山藩医学館は現在の岡山大学医学部の前身であるばかりでなく、1949年創設の岡山大学自体の前身となります。

【参考文献】
・額田晋 : 自然・生命・人間 / 世界観研究会編, 東京,西川書店,1972,
・医界風土記 : 中国・四国編 / 日本医師会編集 ; 酒井シヅ監修, 京都, 思文閣出版, 1994.8, p.1-105
・明治前日本医学史 増訂復刻版第 /日本学士院日本科学史刊行会編, 東京, 日本古医学資料センター, 1978.6,  第五巻



【第2展示:額田文庫】
 こちらのコーナーでは実際の「額田文庫」をご覧いただきました。

 

 「額田文庫」に収録されているのは、おもに17世紀から19世紀にかけて出版された医学書で、本学創立者の額田豊、晋先生のご実家、備前岡山の医家額田家で曾祖父太仲氏から四代にわたって受け継がれてきたものです。
 43種類275冊からなるコレクションは、そのほとんどが和装本で、内容は「本草綱目」や「黄帝内經」のような中国漢籍の古典から、「産論翼」や「叢桂亭醫事小言」のような江戸時代の医学書のほか、幕末・明治期に日本に入ってきた西洋医学の影響を受けて書かれた「七新薬」や「病理各論」、来日した西洋人医師の講義録「原病學通論」、西洋の医学書の翻訳本である「醫療新書」など、多彩なものとなっています。
 また、個人の蔵書であったため読まれてきた年代や使った人を思わせる書き込みや印も多数あり、読書時に書き取ったと思われる書き付けや何かの折に紛れ込んでしまったかと思われる信書類も数点見つかっています。
 例えば「病理各論」という本には豊、晋ご兄弟の父篤太氏の印が押されていますが、この「病理各論」が発行された1880年代当時、篤太氏は東京大学医学部別課に第6期生として在籍していました。この本は著者の三宅秀が東京大学医学部別課で講義をするための教科書として執筆したものであるため、篤太氏は実際に著者の講義を受講する際のテキストとしてこの本を入手した可能性もあります。
 「額田文庫」をご覧になることで、当時の医療や時代の息吹を感じ取っていただければと思います。

 

     デジタル画像「額田文庫デジタルコレクション」はこちら→ 額田文庫デジタルコレクションバナー


 


 種痘証明書
 「額田文庫」中からは、挟み込まれていた紙片が何点か見つかっています。その中に明治8年と年号の入ったこの「種痘証明書」がありました。(右図)
 「種痘証明書」とは種痘を受けたことを証明するもので当時種痘を施すことを認められていた"種痘医"が発行していたものです。
 牛痘種痘が国の事業として全国に普及しはじめたのは明治3年に「大学東校種痘館規則」として布告されてからのことで、その後明治7年10月30日付で文部省の布達27号として各府県へ「種痘規則」が出され、法を通して全国に広まるようになります。この「種痘規則」の中で種痘証明書の発行について言及があり、書式も指定されています。(下図) 1)

 

 今回、本の中から見つかった証明書はこの書式とそっくりなものでした。証明書の発行年月日は明治8年4月15日となっているので、もしこの日付けが正確なものだとすれば、前年10月の布達に従っているものと考えられます。当時の事情を考慮すればかなり早い対応だといえるのではないでしょうか。
 足守藩(現在は岡山市)が種痘普及の尽力者である緒方洪庵の出身地でもあり、牛痘痂が長崎に入った翌年には藩主木下利恭が洪庵を召し寄せ種痘を開始し、その後足守除痘館を設立するなど、岡山県が種痘に積極的な地域であったことも関係しているかもしれません。

 

 明治期の岡山の種痘事情については、本校の卒業生である木村丹先生(日本感染症学会専門医、日本医学史学会会員)に資料と解説をいただきましたので下に掲載します。
 また、この証明書を発行した種痘医の小林定矩氏については、木村先生に調べていただいていますが現在のところ不明とのことです。

 

  1)国立公文書館デジタルアーカイブ http://www.digital.archives.go.jp/
   トップメニューの「デジタルアーカイブシステム」より”種痘規則内改正・二条”で検索すると当該の布達内容を見ることができます

 


岡山県の種痘資料   木村 丹

「清音小学校生徒種痘人名」別府慎太郎先生提供(適塾門下生 別府琴松5代目子孫 大阪大学医学部大学院教授)

 

 2006年に大阪大学医学部大学院教授 別府慎太郎先生所有の資料を見せていただいた。別府慎太郎先生は適塾門下生 別府琴松から5代目の子孫でこの貴重な資料を100年以上保有している。
 資料上段の右端に「清音小学校生徒種痘人名」とある。明治の初め清音村(現在の岡山県総社市)の小学校で琴松の子息 覚太が小学校生徒に実施した種痘の名簿と推測するが、日時について記載はない。上段左から9番目の「楢村孫一郎」の墓を総社市内にみつけ、墓碑銘文から昭和45年9月13日に87歳(1970年、満年齢86歳)で亡くなったことが判明。逆算すると1884年(明治17)生まれで、種痘を行った8年(歳)3ヵ月は1892年(明治25)と考えられた。同様に最も左の「安延千代吉」、右から7番目「別府二郎」の墓も見つけ、墓に刻まれた死亡した年と年齢からこの種痘は明治25年に実施されたと考えられた。
 よってこの資料に記載された種痘の実施年1892年(明治25)は、わが国で初めて牛痘が成功してから43年経った時点のもので、すでに各地で種痘は円滑になされたものと推測する。

 

   木村 丹先生のHP 「医療の歴史」 http://www.k2.dion.ne.jp/~drkimura/