オニヤンマと言えば、私が子供の頃は自宅の近所では年に数回しか会えないトンボだった。今では時期に筑波山に行くと普通のトンボのごとく沢山のオニヤンマに会える。山道を500m歩く間に30匹近く見られる場所がある。空を見上げると15匹ぐらい飛んでいて、低いところでも同じくらい飛んでいるのだ。
筑波山の頂上まで行く山道の、500mほどあるまっすぐな場所でオニヤンマたちを観察していると、彼らは何度も何度も私を見に来た。私の顔の前でホバリングしながら私を見るのだ。ある日、枯れた植物の蔓につかまって休憩しているオニヤンマを見つけたので写真を撮っていると、「ガサガサガサ」と急に他のオニヤンマが私の髪の中に突っ込んできて、そして飛び去った。翌週また同じように、休んでいるオニヤンマを撮っていると、また「ガサガサガサ」と音がした。「来たな」と思い、じっとしているといきなり私の耳たぶを噛み、飛び去った。本気で噛んだようで、かなり痛かった。そんなことがあったので、次の週には耳当てをして歩いていたのだが、今度は後ろからオニヤンマが頭に突っ込んできて髪の毛に絡まった。意図せずオニヤンマを捕まえることができた。一度ならず三度も。なんで頭に突っ込んでくるのかはわからないが貴重な体験だった。
今は社会人のI君が大学2年生の頃のことだ。雑談をする中でI君がトンボ好きだということがわかり、真っ黒なオニヤンマの話をした。その真っ黒なオニヤンマというのは、私が愛犬のラッキーを連れて筑波山へ行った時に出会ったオニヤンマのことだ。
それは私が初めて会った真っ黒なオニヤンマだった。存在すら知らなかった真っ黒なオニヤンマ。その黒さがあまりにも衝撃的で何度もその個体を見直したが、やはり真っ黒だ。体長はオニヤンマの中でも大きい方で、普通は体にあるはずの黄色の縞模様が全く無い。羽も普通は透明なのだが、そうではなく、やや濃い茶色だ。筑波山の山道の、直線になっている場所を何度も往復しては私の顔の前でホバリングをしながら私を観察しているようだった。距離にして40cm位か。何度も目があったように思う。私に興味があるのか、5~6回やって来ては、そんなことを繰り返した。私はどうにか写真を撮りたいと思い何度もシャッターを切ったが、近すぎてピントは全て背景に行ってしまった。それに、レンズを向けるとサッとかわされる。撮れなかった。辺りも暗くなり、愛犬のラッキーも「帰ろう」と催促する。私は充実した1日を過ごし、ヒグラシの合唱の中、山道を下った。ラッキーは私の姿を見ていて察したのだろうか、「また来よう」というように私の頭を前足で軽く二度たたいた。
真っ黒なオニヤンマがいるとわかり、軽い気持ちで「また会える」と勝手に思い込んだ。「またここに来れば会える」と、その時は思った。翌日、インターネットで黄色の縞模様が無い真っ黒なオニヤンマについて検索をしたが、それらしい情報は全く出てこなかった。私はこの時になって初めて、あの真っ黒なオニヤンマがすごく珍しい個体だったかもしれないと気付いたが、後の祭りであった。後日、昆虫の専門家に聞いたところ‘真っ黒なオニヤンマ’は、それまでに報告例がないとのことだった。せめて写真がまともに撮れていればよかったのにと思った。
この出来事をI君に話したところ、彼がとても興味を持ってくれたので、真っ黒なオニヤンマを探しにその次の日曜日に筑波山へ行くことになった。その日、I君は普通のオニヤンマを10匹以上捕まえた。1日でこれだけ多くのオニヤンマを捕まえたことは初めてだと興奮して言っていた。だが、丸一日粘ったが、私が出会った真っ黒なオニヤンマに会うことはできなかった。一目でいいからI君に会わせたかったのだが、本当に残念だった。あの個体は何だったのだろう。
私も真っ黒なオニヤンマにまた会いたいが、会えるかどうかわからない。8年前の出来事である。
(オニヤンマ/オニヤンマ科 2023年7月.記)