後藤先生の徒然日記

宇宙で老化実験 (2009年6月29日)

 月一回、老化や長寿に関する雑文を書いてみたらという東邦大学メディアセンターの提案で始めた徒然日記も丸一年になった。 "徒然"とは大辞林(1988、三省堂)によると『何もすることがなく退屈であること、するべきことがなく所在ないさま、何事も起こらずさびしいさま』とある。 要するにヒマを持て余して手持ち無沙汰状態である。辞典はさらに『徒然草:随筆、吉田兼好著。随想・見聞などを、著者の感興のおもむくままに記したもの』と続く。 僕の想うことや見聞の範囲は偏っているし、文章は論外だが、感興のおもむく先はサイエンスだから味気ない。退職してノルマが減ったことは確かだ。 しかしヒマを持て余すほどでもなく、何かと用に追われている。 この春から初夏にかけても相変わらずで、怠慢も相まって月遅れだった"日記"も3月号がとうとう季節遅れになってしまった。

 3月は若田光一さんが三カ月の滞在予定で宇宙に飛び立った。 彼が宇宙で過ごしている間にこれを題材に何か書こうかと思っているうちに、地球へ帰還する時が近づいてきた、と思ったら、次のスペースシャトルの打ち上げ延期で帰還はひと月伸びるという。 無重力(正確には微小重力microgravity)の宇宙では筋肉が委縮し骨がもろくなり、老化が促進するようだということは、今ではよく知られている。若田さんらがこれを防ぐために宇宙船に運動器具を持ち込んで筋トレをしている姿がテレビで放映されていた。 水中の魚は浮力と重力が釣り合って無重力に近い状態に置かれている点で宇宙にいるのと似た状況だと思うが、水の抵抗の中で動き回っているので筋肉や骨が発達する。鮨種の関サバなどは、その上、急な海流に逆らって泳いでいるため養殖魚より身がしまっている。 泳ぐといっても、無重力・無抵抗の宇宙遊泳ではそうはいかない。4か月半になる宇宙滞在中の筋トレの成果を知りたいところである。

 魚といえば最近、コオリウオ (icefish)が骨粗しょう症研究のモデル動物になるかもしれないという記事を読んだ(註1)。 コオリウオは南極の極低温海域に生息する魚で、脊椎動物では唯一ヘモグロビンを持たないで酸素呼吸をしていることで知られている。 極低温のため体液中に溶存する酸素が多く赤血球による運搬を必要としないという。通常の意味では"貧血"だ。 記事によると、3400万年前から南極海の海底に生息していたコオリウオの祖先は、その後、海水の低温化で上層の魚が次第にいなくなった後に生息域を広げた。 深海に適応して失った浮き袋を再び獲得して浮上するのは長い年月をかけても困難だ。そこで深海底生活に必要だった丈夫な重い骨のミネラルを減らして身を軽くするという戦術をとった。 頭蓋骨まで薄くしてしまったため、骨の下に脳が透けて見えるそうだ。文字通り骨身を削って自ら骨粗しょう症になって子孫繁栄のために環境に適応した。 コオリウオの骨形成・破壊に関わる遺伝子を解析し、発現調節機構を調べればヒトの加齢で起こる骨減少症や骨粗しょう症の原因や対策に何か手がかりが得られるかもしれない。 浮力を増すために脂肪を蓄える仕組みも獲得しているそうだから生活習慣病の研究にも役立つかもしれないという。 この研究はアメリカの国立老化研究所の研究補助金2億5千万円を得て推進されるそうである。

コオリウオ

 宇宙空間での生物実験がいろいろ行われている。老化関連では線虫を用いた筋委縮や異常タンパク質の蓄積に関するものがある。 線虫は、1 mmほどのサイズながら筋肉(骨格筋や心筋に似た筋肉)や神経系を持つなど哺乳類に似た部分もあり、寿命が短い上(平均寿命3週間ほど)、遺伝子も良く分かっているため、リンク モデル動物として老化研究、その他の研究によく使われている。 地上でも高齢の線虫には加齢性筋委縮(サルコペニア)が起こる。今回のミッションでも線虫を使った実験が行われるようだが、ロシアの宇宙船ソユーズで打ち上げられた国際宇宙ステーションに滞在(10日間)した線虫の筋萎縮メカニズムが筑波の宇宙航空研究開発機構などの研究者によって調べられている。 筋肉タンパク質の合成が遺伝子の発現レベルで低下し、動きも悪くなったという。 重力の刺激が無くなったためと考えられるが、宇宙で線虫に筋トレをさせたらどうなるだろう。

 数年前、アメリカで第一回国際ホルミシス会議が開かれた(註2)。 シンポジウム「老化とホルミシス」でオーストリアの研究者が遠心機で作り出した過重力環境がショウジョウバエの老化やストレス耐性にどういう影響をおよぼすかの研究結果を発表した。 4Gから7Gの重力で運動能の加齢低下が抑制され、熱ストレスに対する耐性が増加したという(ハエはさぞや目を回したことだろう)。 宇宙船の中でも遠心機によって筋委縮や骨量減少をおさえることが考えられているようである(註3)。 遊園地には「コーヒーカップ」や「ローター(今では見かけない?)」という遠心力を使った回転式の遊具があるが、その原理は運動が出来ないお年寄りの筋肉や骨を鍛えるのに使えるかもしれない。

 東京都健康長寿医療センター研究所(旧・東京都老人総合研究所:略称老人研)の本田修二・陽子夫妻は、細胞内にタンパク質の凝集を調べるマーカー(ポリグルタミン遺伝子)を入れておいた線虫のポリグルタミン凝集体を調べ、宇宙では地上よりも凝集が遅くなることを見出した(註4、5)。 高齢のヒト、その他の動物の脳には種々のタンパク質凝集物が蓄積し、アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患を引き起こす。線虫の実験結果は、この点で宇宙では老化が遅れる可能性を示唆している。 本田博士らの研究はまだ基礎的なものではあるが、将来、人間が宇宙空間で生活するようになった場合の医学的な問題について情報を与えてくれそうである。

1) Maher B: Biology's next top model? Nature 458: 695-698, 2009

2) 後藤佐多良:ホルミシスと老化介入― 第1回国際ホルミシス会議International Conference on "Hormesis: Implications for Toxicology, Medicine and Risk Assessment" 参加記 ― 基礎老化研究 29: 45-47, 2005

3) ジョージ・ヴァーニカス「宇宙飛行士は早く老ける?」(2006, 朝日新聞社)p.154

4) 本田陽子ほか:宇宙空間における線虫の老化:基礎老化研究 30: 31, 2006 & 同31: 37, 2007、および論文投稿準備中(2009.5現在)

5) ポリグルタミンはアミノ酸のグルタミンが何十も長くつながった構造をしていて、ある長さ以上では凝集物が毒性をもち神経細胞死を起こす。遺伝病のハンチントン舞踏病などの神経疾患の発症原因とされている。

 

 

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