共同研究
尖閣諸島におけるアホウドリの歴史と繁殖現状 
 

1.はじめに

   

 かつて、尖閣諸島ではアホウドリが大集団をなして繁殖していた。

 1845年6月16日 、英国の探検測量船サマラン号による東洋探検隊は、尖閣諸島に立ち寄り、黄尾嶼でアホウドリを観察した。
  それから40年後の1885年10月23日、石沢兵吾(沖縄県属)は 無人島の尖閣諸島を調査し、魚釣島で数万羽のアホウドリが営巣していることを観察 した。その後、1891年と1893年に、古賀辰四郎の命で、伊沢弥喜太が尖閣諸島を探検 ・調査し、海産物やアホウドリを採集した(黒岩1900による)。  

 この調査結果にもとづいて、古賀氏は尖閣諸島の開拓が有望なことを見込み、同諸島を開拓する許可を政府に申請したが、これらの島々の帰属問題が関係国間で未解決 だったため、政府は開拓の許可を見送った。

 1895年、日本国政府は、勅令によって尖閣諸島を領土とし(1895年1月14日の閣議決 定)、翌96年に古賀辰四郎にこれらの島々の開拓する許可を与えた。
  古賀氏は1897年 から魚釣島に、98年から黄尾嶼に人を移住させ、集落をつくり、アホウドリの羽毛採取や漁業を軸とする無人島開拓に着手した。これによって、毎年15-16万羽のアホウ ドリが捕獲され、アホウドリの個体数は急速に減少した(黒岩1900、宮嶋1900-01)。  

 古賀氏の要請で1900年5月10日に黄尾嶼を調査した宮島幹之助は、20-30羽の小群をあちこちで見ただけであった。
  同年5月12-13日に、同じく古賀氏に派遣された黒 岩恒は、魚釣島を調査し、道安渓でひなをかなり多く観察し、成鳥3羽を生け捕りに した。
  この後も捕獲が続いたため、アホウドリの数は激減し、1910年ころには黄尾嶼 の4カ所、魚釣島の2カ所で細々と繁殖するだけになったという(恒藤1910)。  

 それから約20年後の1939年5月27日、正木任は魚釣島や南小島、北小島に上陸したが、アホウドリを1羽も観察することができなかった(正木1939)。  

 戦後の1950年3月28日-4月9日、1952年3月27日-4月28日に、琉球大学農学部の高 良鉄男教授らは尖閣諸島の生物相について調査を行ない、黄尾嶼(当時、アメリカ軍 の射爆場となっていた)を除く各島に上陸したが、アホウドリを観察することはできなかった。

 さらに、1963年5月15-21日にもこれらの島々の調査をしたが、やはりアホウドリの姿を確認できなかった(高良1963など)。そのため、尖閣諸島のアホウド リ繁殖集団は消滅したと考えられていた。その後も、1970年11月19日-12月12日に、九州大学・長崎大学探検部の尖閣列島合同学術調査隊(1973)が上陸して調査したが 、このときも結局、アホウドリは確認されなかった。