◎入選二席 理学研究科修士課程生物学専攻2年 岡田有紀子

「パラサイト・イヴ」瀬名秀明著 角川書店 1996  人類は長い時間をかけて知識を増やし、文明と呼ばれるものを築いてきました。それ によって我々の生活はより便利に、より豊かになったのです。夏の暑さをしのぐための 冷房を作ったり、徒歩なら何日もかけねばならない距離を数時間で移動したり、実に様 々な不可能が可能になったのです。しかしそれは同時に多くの問題を私たちに直面させ ることにもなりました。とりわけ医学の進歩は、それが命に関わるという点で、深刻か つ倫理的な問題を提示することになりました。  『パラサイト・イヴ』。これは東北大学の教官が執筆した小説です。主人公である大 学の助手は交通事故で妻を失います。彼は妻の遺言に従って彼女の腎移植に同意するの ですが、その過程で彼女の肝細胞を手に入れます。彼は妻の肝細胞のプライマリーカル チャーを研究室内で密かに行うのですが、実は彼女の細胞には恐るべき秘密があったの です。  この物語は細胞の中に潜むミトコンドリアが反乱したらという発想によって書かれま した。自分たちの一部として存在するものが実際は反乱を企てていたとしたら、確かに ぞっとします。『パラサイト・イヴ』は生化学の理論を踏まえた上で書かれていますの で現実感があり、また私自身生物学を学ぶ者として興味深い点が多々ありました。恐怖 小説という体裁ですが、そうした意味ではあまり恐怖は感じなかったというのが本音で す。怪物のように描かれているイヴにしても生物としての生々しさは感じましたが、恐 ろしいとは最後まで思いませんでした。それよりも私に恐怖を感じさせたのは主人公の 行動です。死んだ妻の細胞を培養するという発想自体が私には理解できないのですが、 それ以上に主人公が培養を実行してしまったことに恐怖を覚えました。  便利な道具があれば使いたくなるのは人情です。それが世の為人の為になりそうなら、 尚更です。これは自然なことだと思います。でも、私はここで”待った”をかけたいで す。はやる自分を抑え、落ち着いて自らを見直すべきだと思うのです。さもなければ、 技術を使うことに気を取られて、重要なことを見失ってしまいそうな気がします。  昨今の科学技術は次々と不可能を可能にしていきます。臓器移植や難病の治療などは 喜ぶべきことなのですが、その一方でクローン生物のように倫理的な議論を起こしてい る事柄もあります。医学や生物学関係は生命に関わることが多いせいか、こうした倫理 的な話題が取り上げられることがあります。しかしどうしたわけかこれらは一過性のも のであって、常に考えられ続けているものではありません。少なくとも日本においては その様に感じられます。欧米では、これは宗教の関係もあるのでしょうが、活発な議論 を起こしていると聞きます。もっともアメリカなどでは未だに進化論を教えない学校も あるということですから、必ずしも宗教に根ざした倫理観だけで科学技術の倫理問題を 考えることが正しいとは言えません。ただ、自らの行いを倫理的に考える眼を持ってい るという点は重要なことだと思うのです。なぜなら私たち日本人には、特に日本人の科 学者にはそうした意識が希薄に感じられるからです。『パラサイト・イヴ』でも主人公 の行為を止めようとする人はいました。それは主人公の友人なのですが、その人も確固 たる信念から止めたというよりは漠然とした恐怖心から止めた、と私には感じられまし た。その点では日本の科学者は倫理的な問題に対する考慮が少ないのかもしれません。  私たちは科学技術を使って何を行ってよいのでしょう、何を行っては悪いのでしょう。 これは結局のところ、私たちの倫理観にかかっていると言えます。しかし、科学を学ぶ 私たちに、こうした倫理観を科学と関連づけた上で養う機会はこれまでほとんどありま せんでした。倫理学は文科系の授業でしたし、社会科の中でも必修ではありませんでし た。また大学でも、科学技術の利用に関する倫理的な問題を扱った授業は見当たりませ ん。殆どの授業は理論やその応用の話に終わり、それを用いた際にどういった問題が生 じるか、そしてそれらに対して私たち科学を学ぶものはどのように向かうべきなのかに まで踏み込むことはありませんでした。短時間内で一定の知識を修得させるためには当 然のことですが、私はここに疑問を覚えずにはいられません。  もちろん、それだからこそ今日における日本の発展があったことは事実です。取り入 れた科学技術について、それを使うことの善し悪しは考えないで使ってみるということ をしていたからこそ、日本は技術立国と呼ばれるまでになったのです。しかしその弊害 は大きすぎました。何も考えずに使ってしまうから次々に問題が生じ、それでいて何一 つ満足に解決されないままになっているのです。  臓器移植にしても移植が行われる度に議論が起こり、そしてそれは、結局、過去の繰 り返しでしかないのです。これではいつまで経っても同じ問題で無駄な時間を費やすだ けです。こうしたことを繰り返さないためには私たち科学を学ぶものはどうすればよい のでしょう。こう考えたとき、私の頭の中には一つの疑問が浮かんできました。それは、 なぜ私は科学を、私の専攻である生物学を学んでいるのだろうということです。  私が生物学科に入学したのは、生物に興味があったからです。そして生物に関する知 識を増やして、可能であれば社会の役に立てるようにしたいと思ったからです。もちろ ん入学後すぐに自分の見通しの甘さには気づかされました。他の分野も同様でしょうが、 生物学の懐の広さ、奥の深さに気が遠くなり、入学時の向学心はいつしか諦めに近い想 いに変わっていきました。大学院に進学してより深い研究を行っている時も、入学時の 向学心は蘇ってはきませんでした。こうした中で私自身、生物学を学ぶ意義を忘れてし まっていたのです。そして修了も近づきつつある今、私は再び入学時の場所に戻ってき ました。なぜ生物学を学ぶのか。その答えは六年経った今も変わりません。生物学の知 識を用いて世の中の役に立ちたいと私は考えています。  それならば、世の中の役に立つように科学を用いれば良いということになります。こ れ程わかりやすい答えもありません。そう思った瞬間、私は次の疑問にぶつかりました。 ”世の中の役に立つ”とはどの様なことなのだろう、ということです。例えば、私の生 物学の知識や技術を用いれば命が救われる人がいるとします。この場合、その人を救え ば良いと思われます。しかし、もしその人が救助を拒んだらどうすれば良いのでしょう。 助けるに当たり必要な資金をその人が持っていなければどうなるのでしょう。命を救う という行為自体は正しいことです。しかしそれを行うことが本当に”正しい結果”を生 み出すのかについてまで考えてみますと、私には自信がありません。自分の価値観も、 多くの人々が住む社会の中では、時として何の力も持たないだと気付きました。  では科学を学び、用いる者はどうすればいいのでしょうか。これについて私自身の考 えを述べたいと思います。私は、まず自分自身で考えてみることが重要だと思います。 先程の例ですと、救助に使う技術の原理はどうなっているのか、そこから二次的に起こ りうることはどういったことか、そしてその技術を使うことが人道的に正しいことなの かを常に考え続けなければならないと思います。そんなことはしていられない、そんな ことが言えるのは実際の現場を知らないからだ、一秒を争う現場ではそんなことを考え ている暇はないのだという反論はあるでしょう。私自身、確かに現場については知りま せん。しかしそれならば普段からそうした問題に自分の中で取り組んでいればよいので はないでしょうか。様々な状況、自分の立場、使える技術そしてそれらが生じさせる事 柄を想定し、人道的に正しいと思われる行動を考えてみる。これくらいなら普段から行 えると思います。もし無理だというのなら、それはその人の能力の限界ですから仕方あ りません。ただそのくらいのことも行えないようでは、これから先科学者としてやって いけるかは甚だ疑問だと思いますけれど。   臨機応変というように状況によって行動は変わるかもしれません。ただ私は、行き当 たりばったりに技術を使うことが正しいとは思えません。もし臨機応変に対応するにし ても、そこには理念がなくてはならないのだと思います。命を重視するのなら常に命優 先という姿勢、個人の意志を尊重するのなら意思の優先というように、一つの理念に基 づいた上で状況に応じた対応をすること、これこそが技術を用いる者のあるべき姿勢で はないでしょうか。  私の話は細かすぎるかもしれません。ここまで考え出したら進むものも進まなくなる と批判されれば反論できません。ただ、私たちは自分の価値観に支配されています。物 事を考えるに当たっても科学技術を使うに当たっても、常に私たちは自分の価値観の影 響下にあるのです。そして使われる側の価値観が使う側と一致しているとは限りません。 この価値観は倫理観と置き換えても良いでしょう。  倫理観は教えられるものではなく、自らの中で養うものです。それは理論や理屈では なく、結局は私たちが暮らす環境の中で自然に育っていくものなのです。とすれば、倫 理観を養う授業は必ずしも必要ということはないかもしれません。科学を用いるに当た ってどこまでやっていいのか、どこからはやってはいけないのかは、私たちが自ら考え るしかないのです。大学に入学しているのですから、そのくらいのことは考えられる筈 です。もし考えられないのなら、その人は小学校からやり直すべきですし、そういった 人に科学を学びそれを使う資格はありません。かつてノーベルは自分の発明品が戦争で 利用されていることを知り、後悔したといいます。ノーベルがどこまで考えていたかは 知りませんが、爆薬を作る際にもう一歩思考を進めていれば状況は変わったかも知れま せん。同じように『パラサイト・イヴ』の主人公も自分の行動をもっとよく考えていれ ば、あの様な破滅はしなかったと思います。もっとも後悔があるから人は前進するのも 事実です。失敗を繰り返さないことも重要なことだと言えます。昨今は思慮が浅いとし か思われない人が多く見受けられます。これを教育のせいにするのも社会のせいにする のも簡単です。しかしこれらはあくまで一面的な見方でしかありません。こうしたこと は話題を一般的にするだけで解決はもたらさないのです。  結局、私たちは自分の思考から逃れることはできません。自分の思想、価値観そして 倫理観に制約されながら、私たちは考え、動き、生きています。そしてそうした活動に 潜む正当性は他者との比較、厳密に言えば他者の思想、価値観そして倫理観との比較の 中ではじめて見出されるものです。とすれば、まず自分自身が自分の立場を見つめ、そ れを絶対と過信せず、他人の立場も可能な限り理解した上で考えてみることは、私たち 一人一人の義務と言っても過言ではありません。そして同時にこれは科学に関する事柄 に限った話でもないのです。科学を使うことには、私たちの倫理観が映し出されている のです。私はそのことを理解した上で、自分自身が科学を学ぶものとして自覚を持つよ うにしたい、そして科学を用いるものとしてその効用と弊害について常に考えを巡らせ ていたい、そんな風に考えました。