◎入選一席 理学部生物学科3年 伊達宗良

「東京セブンローズ」井上ひさし著 文藝春秋 1999    20世紀最後の発明品であり、21世紀への架け橋となるインターネットの普及により、 誰もが簡単に家に居ながら国境を越えることのできるようになった。そして、インター ネットの確立により世界が結ばれ、国が異なっている人同士でさまざまな意見や情報を 交換できるようにもなった。  地球で誕生した生物は地域ごとに進化し、人間に至っては文明を生み地域ごとに文化 を育んできた。独自の文化を長い時間かけて温めてきた人間が、この先今まで以上に他 の文化を持つ人間と交流できるようになるだろう。もしかしたら、人間も多様性を失う 道をすでに歩き始めているのかもしれない。海に隔てられた大陸で進化してきた動植物 人間の移動に伴って多様性を失っているように。果たして、計り知れない時を費やして 育んできた血や、文明から生み出した文化は多様性を失い、画一化されてしまうのだろ うか。  僕は日本で生まれ、日本で育った。だから、日本語を使って生きている。それぞれの 国で生まれた人間はそれぞれの国の国語を使って生きている。地球がネットで結ばれ、 いよいよ人間も本格的に宇宙へ進出する21世紀、地球人は地球共通言語を制定した方が いいのであろうか。  僕は井上ひさし氏が17年間もの長い時を費やし完成させた『東京セブンローズ』を読 むまで、現在自分が使用している日本語の危機について全く知らなかった。  かつての大戦争、大東亜戦争において大日本帝国は、支配した国や地域の人々からそ の国の文化の象徴である国語を奪った。そして、彼らに日本語を国語として強制的に使 わせた。日本が第二次世界大戦時、諸外国に対して犯してしまった大罪は日本に住んで いるとほとんど情報が入ってこないので、詳しいことは良くわからないが自分がこれま で集めた情報によるとそのようであるらしい。実際、南の国の住む老人が日本語を巧み に扱うのを映像で見たときはびっくりした。  昭和20年8月15日、大日本帝国は無条件降伏をした。そして、総司令部(GHQ)による日 本の建て直しが行われた。  占領軍民間情報教育局による日本改革案のひとつに日本語のローマ字化を計るという 案があったそうだ。まさにこれこそが因果応報の理だと思った。大日本帝国がこれまで してきたことが、今度は自分たちに返ってきたのだから。  しかし、僕は漢字、ひらがな、カタカナ、時には振り仮名、ローマ字を用いた日本語 でこの読書感想文を書いている。何故、占領軍民間情報教育局によるローマ字化は失敗 したのであろうか。この物語では、東京セブンローズと呼ばれる7人の女性の体を張っ た捨て身の行動により占領軍民間情報教育局の日本語のローマ字化は失敗に終わってい る。  敗戦を迎え、人々は変わった。そして、戦時中は天皇を現人神と称したように、今度 はマッカーサーを濠端(ほりばた)天皇と称し敬い始めた。人々はGHQが差し出すいわ ゆる飴に踊らされ、過去を抹消した。焼夷弾で親しい人を失っても、多くの人々は過去 を流した。それだけこの戦争が無意味なものであり、またその厳しさと愚かさを物語っ ている。  当時の日本は無条件降伏したのだから、何も文句は言えない。けれども、『東京セブ ンローズ』なる7人の女性たちは戦った。7人の女性には、アメリカに恨みがあった。 彼女ら全員は、空襲でかけがえのない人の命を失った。彼女たちは、顔を白く厚塗りし て七輪の薔薇になって自分たちの文化を守り切った。  『東京セブンローズ』は全文日記形式である。東京根津宮永町に住み物資がなくなる まで團扇(うちわ)屋を営んでいた主人が、昭和20年の春から1年間毎日毎日欠かさず 書いた日記である。物語(日記)は、大きく分けて前半と後半に分かれる。  前半は終戦間近の昭和20年4月から始まっている。銃後の生活が一日一日丁寧にかつ 真実のみが事細かく綴られている。戦争というと戦闘機や戦艦が戦う前線の方ばかりに 注意が向いてしまうが、銃後も前線と同じように戦っていたということに初めて気が付 いた。  戦争が進むにつれ物資がなくなり始めた。物資困窮の中で、銃後がどのようにして食 をつないできたのだろうか。その正体は、闇市であった。読み進めるうちに、闇市がな ければ当時の銃後は前線よりも先に崩壊していただろうと感じた。また、当時の社会状 態では闇市が生じること自体当然と思われた。日記によると、当時の配給だけでまっと うに生きることは不可能であった。配給は何ヶ月も遅れる上に、いつの間にか遅れてい た配給がなくなっていることもしばしばあったそうだから。  闇市もしくは闇、闇屋という名称は昔から知っていたが、その実態はよく知らなかっ た。闇市は、無能な上層部がきちんと物資を供給しないため自然発生し、この闇市によ って物資が循環した。けれども、この闇市を取り締まるのが無能な上層部だったからひ どい話だと思った。銃後は、何故そんな無能な上層部の言いなりになってしまったので あろうか。  その答えが、非国民というなんだかはっきりしないレッテルだったと読み取れた。天 皇が現人神でもないことが当時の人にはわかっていながらも、非国民というレッテルが 銃後にのしかかり勝てもしない戦争に勝利を描いていた。むしろ描こうと努力していた。 非国民というたった3文字が当時の銃後のみならず前線までも追い立て、日本人に結束 を生み戦争を動かしつづけていたと思われる。敗戦を迎え、GHQにより戦争を引き起こ した無能な指導者層が排除され、人々は非国民というレッテルからようやく逃れること ができた。  銃後の生活を潤す闇市だけなら良かった。けれども、人間には生まれながら欲という ものを持っている。つまり、闇屋で儲ける人たちが出てきたのである。儲けた人たちは 儲けた分の一部を警察などに納め、捕まることもなくどんどん儲けていった。物資困窮 の時代に信じられないくらいの贅沢三昧をし始める闇屋も生まれた。そのため銃後では 戦争が進むにつれて、ますます貧富の差が広がった。前線で尊い命を落とすものもいれ ば、銃後において闇で儲け贅沢三昧をするものもいた。おかしなことである。それも結 局は、人間が生み出した最悪のイベントである戦争へ突入させた無能な指導者に行き着 いてしまうのだが。  また、とても驚いたことは当時の学生たちがどれほど勉強したがっていたかというこ と。B29やP51の毎日の空襲に心休まる日はないはずなのに、当時の学生たちはとにかく 勉強したがっていた。この勢いこそが戦後の日本を支え、今の自分たちの生活が成り立 っているのではないかと思われる。見えるはずもない未来にばかり気持ちがいってしま い、現実ときちんと向かい合うこともままならず、ぬくぬくと生きている自分が恥ずか しく思えた。彼らは、おそらく自分たちがこれからどこに向かおうとしているのかわか らなかっただろう。けれども、彼らはとにかく目の前にあることに一生懸命になり、つ まり必死に勉強した。見習うべきことは、たいてい過去の歴史から見つかるものである。  終戦を迎えても、日記は綴られている。  日本は終戦を迎えるまで、いわゆる男の時代であった。男が全てを支配し、勝手に戦 争を起こし、そして敗れた。そのため、男の支配に耐え続けてきた女性は敗戦を機に男 に対する信頼をなくした。男女の地位が逆転とまでは行かないが、同等までは近づいた。 女性の参政権が認められるようになるのも敗戦後少ししてからである。男尊女卑から男 女平等への道を歩み始めた。  日記で綴られた物語であるため、当然読者は日記の著者から見た世界を体験していく ことになる。多少は当時の新聞記事が引用されたりもしているが、それも日記の著者が 選択しているため、やはり読者は日記の著者にならざるを得ない。ここが、この物語の 最大の特徴であり、優れた技法であった。一人の視点から描かれる世界は、なかなか真 実、つまり裏に隠れているものが見えてこない。実は、この物語の本当の主役は日記の 著者ではなく、先にも記した『東京セブンローズ』という7人の女性からなる秘密結社 なのである。最後の100頁(『東京セブンローズ』は775頁からなる)で、やっとその存在 が浮かび上がってくる。非常にすばらしい推理小説にも負けないくらい、後ろに隠され た真実には驚いてしまった。まさに日記形式が生み出すトリックだった。  日本語のローマ字化は、GHQの機密であった。アルファベットを使う外国人にとって、 日本語は“サタンの発明品”であった。実際、日本人自身も漢字をなくそうとする意見 が出ていたそうである。例えば、福澤諭吉は『文字之教』で漢字廃止を訴えていたそう である。現代においても、ローマ字化を訴えている人もいるそうである。  なぜ、漢字を使っていてはいけないのだろうか。占領軍民間情報教育局は、大東亜戦 争の原因のひとつに漢字を挙げた。そして、漢字の難解さがこれからの国づくりに影響 を及ぼすとも考えたそうである。何よりも、漢字を使いこなすまでに大変な労力を消費 する。また、GHQとしても漢字がなくなればその分だけ効率良く、ことが進むとされた。 日本人のローマ字化が完成したところで、外国語への移行も考えられていたそうである。 なによりも、日本人は器用で上からの命令に何でも従う人種だから、短時間で実行でき ると考えられた。本を読み進めるにあたって、少しは占領軍民間情報教育局の言うこと にも同感してしまった。例えば、日本語を捨て英語を使用するようになれば、現代社会 においては手間が省ける。世界がより一層身近なものになり、科学や政治の分野では今 以上の早さでことが進むに違いない。おそらく、日本語に触れることのできる人間は一 部の学者だけになってしまうだろう。そして、いつの時代か完全に日本語は消え、過去 の遺産になるだろう。戦争を引き起こした悪魔の言語と説明が添えられて。  国語が変わるとは一体どういうことを意味するのであろうか。それは万葉集以来の伝 統を捨てることであり、夏目漱石の『坊ちゃん』や川端康成の『雪国』を別世界のもの にしてしまうことになる。例え、英語に翻訳されたとしてもそれは別の小説になってし まうだろう。日本語でしか表現できない言葉や文字の配列が存在するのだから。つまり、 長年培ってきた文化を失うことになる。  文化をなくし、みんな同じ文明のもと生きたほうがいいのだろうか。画一化された世 界をつくり、効率を上げてうまく生きたほうがいいのだろうか。僕は決してそうは思わ ない。文化は、地域ごとに生まれる文明の子供。何百年、何千年かけて人類が作り上げ た大切なもの。長い年月をかけて積み上げてきたものを壊すことは、簡単かもしれない。 けれども、一度壊したものをもとに戻すことは困難であり、また不可能な時さえもある。 きちんと時間をかけて先を見据えれば、それぞれの文化の良いところも見えてくるはず である。  僕が受けてきた義務教育は、名のつく事柄の羅列であり、その暗記が歴史の全てであ ったといっても過言ではなかった。『東京セブンローズ』を読んで、本当の歴史とはそ の当時の人々が何を考え、何を信じ、何を願って、何に踊らされ、どのように生き抜い てきたかというものではないかと感じた。歴史は、指導者だけのものではなかった。指 導者がどんな政策をしてきたかよりも、当時の大衆からの視点で描かれたほうが後世の 人にとっては有意義なものを発見できるかもしれない。この考えが、正しいとは思われ ないことぐらい百も承知だが、特に『東京セブンローズ』を読んでそう感じてしまった。 必死に生き抜く人々から学ぶことはあまりにも多かった。言うまでもなく、戦争の愚か さと恐ろしさも。