『1997のフィールドワーク』  カリムスキー湖周辺の熱水群と湖の調査

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1997年度の同行者-1-

カリムスキーW:「先生、私この春で仕事を辞めます。お世話になりました。」
私:「また急に! どこかに行くあてはあるの?」  
W:「いいえ、これから仕事を見つけようと思います。」

と言って研究室を訪れたWさんとの会話の中で、

「今年(1997年)の夏はロシア科学アカデミー火山研究所から昨年噴火したカムチャツカ半島・カリムスキー火山の麓にあるカリムスキー湖の調査に誘われているんだ。その湖の湖底からも噴火して湖の水は熱水になりそこに生息していた魚などの生命は全くいなくなってしまったらしいよ。」

などと、すでに決まっていた夏のフィールドワークの予定を話したところ、

「私、興味があるので、おじゃまでなければ行ってみたいな〜。」

と言う返事が帰ってきました。

一瞬"ホントに?"と耳を疑ってしまいましたが、彼女はしっかりと物事を考える人で、決して軽い思いつきで"行ってみたい"などと言うような人でないことを知っていた私は"こりゃ本気だな!"と直感しました。

 でも、フィールド経験は全く無く、ましてや二十代半ばのお嬢さんを普通の海外旅行でなくカムチャツカの過酷なフィールドに連れて行くには、この旅が実際にどのようなものなのかを説明をしておく必要がありました。
  フィールドに出ると自然との闘いであること、ほとんどがテント生活で、女性だからといった特別待遇もなければ危険も伴うこと等を話し、さらにはトイレのこと、そしてお風呂・シャワー等は二〜三週間入れないこと等実際のフィールドでの特殊性等を話し、それでもよければ"まあ、ご両親に相談してから"と言うことにしました。  

 また、ロシアの入国に際してビザを取得しなくてはならないので、こちらも平行してロシア科学アカデミーに対し彼女の渡航の可能性や招聘状のお願いをしました。
  受け入れがスムースに進み、さらに数日後彼女サイドの"OK"も出たので本格的に計画を進め、1997年度カリムスキー湖調査隊?が結成された次第です。

1997年度の同行者-2-

私の知り合いで、会社の役員をされていた60歳半ば過ぎのH氏は、山で鍛えた強靭な体を持ち精神的にも若くていらっしゃる気持ちの良い"おやじさん"で、年齢からするとちょうど私の親父と同年配で人生の先輩なのですが、仕事上でのおつきあいだけでなく、飾り気のない率直な話や意見交換をするために、お互い、時間がある時には一杯やりながら話をする様な関係が続いていました。 全く分野が異なる私達の会話は、お互いの仕事や人生によいヒントを与え合っていた様です。

 お目にかかって話をしている中で、私は再三ロシア人気質は人なつこく純朴であり、日本人が彼らに対して持っているイメージとはかけ離れていることや、自ら体験してきたカムチャツカの大自然について話しました。

 それによってH氏が元来持っていた"山好き""花好き"に火をつけてしまった様で、とうとう彼は「一生に一度でいいから花が咲くカムチャツカに行ってみたい」と言い出してしまっしまったのでした。

 フィールドには行かないものの、かくして3名のカムチャツカ行きが決定したのでありました。

ロシアの子供たちと

ジェーニャとサーシャ 昨年度(1996年)はインドネシア・ジャワ島メラピ山(カワ・イジェン)での国際学術調査が行われたため、今年度は2年ぶりのロシア行きでした。
 今回は1995年のウラジヴォストクでの国際会議で知り合ったロシア科学アカデミー極東地質学研究所副所長のオレグ・チュダエフ( Oleg Chudaev )氏の息子さんたちを、日本語と日本文化の体験学習をしてもらうために日本へ招待したため、彼らをウラジヴォストクの親元へ無事に送り届けるといった役割も有りました。この様な理由からわれわれの出発は彼らの帰国と合わせ日程を調整した次第です。

 ロシア・極東では日本という国を身近に感じ、特に若い世代では日本語や日本文化を積極的に学びたいといった希望も多く、大学での日本語のコースや私塾で日本語学習をしている学生が多く見うけられます。

 そこで、日本で言う中学校から日本語を学び、日本に大変興味を持っている学生4名(男性2名、女性2名)を10日間ホームステイ形式で茅ヶ崎に招きました。

 私はロシアとの研究交流を通して多くのロシアの方々からあたたかく接していただき、また沢山の素敵な経験を通して、形としてではない素晴らしい贈り物を心の中に得たこと等から何か恩返しが出来ないかと考えていました。
  そこで今回みなさんの協力を仰ぎながらこの様なことを始めたわけです。
  ロシアの子供たちが来てくれて日本の子供たちと交流する事が出来れば、日本の子供たちの中にも自分の国にとても近い所にロシアという国があり、この様な人々が生活していると言う認識が生まれ、小さい時から少しでも国際的に世界の様々な方面に目を向けて見るきっかけの一つにでもなればとも考えました。

  そしてなぜ今回からウラジヴォストック経由にしたかと言うもう一つの理由は、アエロフロート・ロシア航空が地方路線を分割した子会社に譲渡し、各々が特徴ある路線を展開したため、日本からカムチャツカに行くには、従来利用していたハバロフスク経由よりウラジヴォストク経由の方が飛行機の本数も増え、料金的にも行きやすくなったという理由があげられます。

空港トラブル編

 ウラジヴォストク空港 たくさんの荷物と人々を新潟空港まで大学の友人に車で送ってもらいました。
 後で聞いた話ですが見た目怪しい人たち(?)がロシアの子供たちを車に乗せて送ってきたので、私たちが出国した後残された人々は新潟県警から質問を受けて、たいそうふてくされていたそうです。

 日本での楽しかったことをおみやげに10日ぶりの親元に帰る中学生たちは、少々ホームシックなのか落ち着かない様子でしたが、1時間20分という短いフライトを経て無事にウラジヴォストクの空港へと到着しました。  

 到着後税関検査で並んでいると、子供たちはスムーズに入国審査や税関検査を終え早々と出ていってしまったのですが、こちらは税関にとっては訳が分からない実験器具や大きなケースを持っていたので大変でした。

 最後には大きなボックスは計量しろということで、秤に乗せるよう指示されました。税関の係官は何やら話し合った末、電卓をたたき100USDの 税金を払えという指示を出してきました。こちらはすかさずボックスを開けてその上段に入っていた実験用ワイパー(ティッシュペパーの厚手のような紙)を出し、

「これは紙だ!おまえの国は紙に税金を100USDもかけるのか!」

とついついまくしたててしまい、税関のお偉いさんに私のパスポートを別室に持って行かれてしまいました。

 私が唖然としていると、これを出口で見ていたチュダエフ氏と ギオルギ(George Likhoidov)氏のロシア科学アカデミーのお二人はやおらつかつかと税関審査の場所に入って来て、身分証を見せながら「私たちはロシア科学アカデミーの・・・」と税関の係官と強い口調でやりとりが始まってしまったのでした。
  ロシア語なので詳しい内容はわかりませんが後で聞くとどうも"ロシア科学アカデミーのために持ってきた実験器具に税金をかけるのか?彼らもわれわれ同様に金がなく四苦八苦してここまでやってきた・・・云々"とまくし立てたらしいのです。

  そうこうするうちにチュダエフ氏らは「OK ! ケンジ、 行こう」と言ってその荷物を自ら運び出してしまい、パスポートも渋々戻ってきて無事に"一件落着"でした。
  目の前で起きた全ての事が日本では考えられないことで、"この数分間はいったい何だったの?と目が点になってしまいました。
  いや〜ロシア科学アカデミーは強いなと感心し、"印篭"を出すのはテレビドラマでの水戸黄門だけではないのだ、という現実を知りました。

 私たちの後の団体も大きな荷物を持っていたので、計量しやはり同じくらいの高い税金を科せられていた様でした。以前に中国籍の方とロシアに同行した時、私たち全員のパスポートに記載漏れが見つかり、なぜかその中国籍の方だけが当局に連れて行かれてしまったと言う事件がありました。事情聴取が終わり、最初2万円くらいの罰金が科せられたのですが、ロシアの先生の交渉でその金額が数百円になってしまったことは何とも変な話でした。

 やっとの思いで空港の外に出ることが出来たわれわれですが、そこではすでに親子の久々の対面がなされ、無事に帰ってきたわが子たちを囲む親達の笑みが大変に素敵だったことを記憶しています。

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