『1994のフィールドワーク』

1994-1 | 1994-2

※地図画像をクリックすると拡大地図のページへ、 写真・文章のリンクをクリックすると紹介文付写真のページへジャンプします。

カムチャッカ再び

地図:クリックすると拡大 絶対に一生に一度しか行くことが出来ないと思っていたカムチャツカのそのまた山奥のマリー・セミアチーク火山火口湖の調査に昨年(1993年)も大がかりな装備で参加することが出来、半信半疑で日露共同調査を遂行してきましたが、また本年もカムチャツカに行くことができるチャンスがめぐって来ようとは思いもよらないことでした。

 ロシア科学アカデミー火山研究所(カムチャツカ)のSergey Fazlullin 氏から今年もカムチャツカに来て今まで行った調査の続きをいっしょに行わないかといった個人的な誘いがあり思慮していたところに、東京大学の地殻化学実験施設・脇田教授(当時)から大学院生を引き連れて火山ガスサンプルをとってくる事は可能か?といった申し出もあり、3年連続のカムチャツカ行きを決定しました。

 そんな遠方にわざわざサンプルを取りに行く理由は・・・昨年、われわれがカムチャツカで採取してきた試料を脇田教授の部屋で分析したところ、カムチャツカの火山ガス中のヘリウムの同位体比について地球上の他の地域より高いといった興味深いデータが出たことによりさらに多くの試料について調査する必要性が生じたことによります。

同行者は…

見るからに頼りないU君を紹介されたのがその後で、まあ1ヶ月よろしくといって別れましたが、これが悲劇の始まり(大げさ?)かと誰が思ったことでしょう。私以外は薄々感ずいていたとも後から知りましたが・・・。地方の有名校から東大に現役で入り大学院に進んだのだからきっと大変に頭の良い方だと思っていました。期待通りそちらの方はとても頭がよろしい方で、性格も素直で良い学生さんでしたが、箸のあげおろしに始まり日常生活のルールといった実生活面では大変手がかかる学生さんでした。

 フィールドワークはとてもチームワークが重要で、ちょっとしたミスが命に関わることも多々あります。日本的に言うと阿吽の呼吸が大切な場面がほとんどで、意思の疎通がとれないのが一番危険なのです。

新潟空港>>ハバロフスク>>ペトロパブロフスクカムチャツキー

 新潟空港からロシア製のツポレフ154型機でハバロフスクに飛びました。彼は飛行機がはじめてだということで、シートベルトも「できません」状態で、私が「何?シートベルトもわからない?」と言いながら彼に"こうするんだよ"とやり方を教えたのですが、彼ができなかったのではなくシートベルトが壊れていて「できません」状態だったのです。結局、シートベルトは結んでその場を乗り切りました。大雨が降ったらしくアムール川が氾濫した状態を窓から眺め、ハバロフスクの空港に着きました。

 ハバロフスクのホテルに一泊し翌日ペトロパブロフスクカムチャツキーの空港に着き、いつもと同じくセルゲイさんのお宅にごやっかいになりました。セルゲイさん一家はモスクワに行っているということで、私たち2人でセルゲイさんの家(4DKのマンション)を使うことになりました。Sergey とモスクワ大学の Taras はもうひとつの Sergey 氏所有ののマンションに寝泊まりしていた様子でした。

 ところで、私たちのところにはSergey の友人で近所の18歳のOrgaという女性が食事を作ったり身の回りの世話をしに来てくれました。あまりにも美しい女性だったので、どきどきわくわく毎日がおちつかない日々でした。女性には興味がないと思われていたあのU君も大変に浮かれていたのが印象的でした。フィールドワークの準備のためと、さらには天候が悪かったという理由から1週間後にようやくフィールドに向かうことになりました。(セルゲイ氏のマンションから見える山

フィールドワークの厳しさ−U君を残し旅立つ−

 ペトロパブロフスクカムチャツキーには多くのヘリポートがあり毎回出発地(使用する航空会社の違い?)が変わります。ソビエト時代はアエロフロート一社であったのが分割民営化と軍のパイロットの転職?によって現在はいくつもの民間航空が営業している模様です。

 今回の出発地は旧市街寄りのヘリポートで、ガイザーヴァレイへの観光客との相乗りヘリコプターでした。出発直前に火山研究所で実質上の所長を委されている Dr Karpov がわざわざ独特の笑顔で見送りに来て下さったのが印象的でした。

クリックすると拡大地図へ ヘリコプターは雄大なカムチャツカの大地をなめるように低空で飛び美しい湖沼や雪が残っている山々を眺めながら一路ウゾン・カルデラに向かいました。途中富士山型のカリムスキー火山を左手に眺め、昨年、一昨年お世話になったマリー・セミアチーク火山火口湖の上を旋回し1時間30分くらいで第一の目的地に到着したのです。

 大きな小屋があり寝泊まりには不自由がないウゾンカルデラは、大小数百もの温泉が 9×12 Km の広さのカルデラに存在していて、この地区は特別の自然保護区になっており年間の立入(特に宿泊による長期滞在)人数が制限されている場所です。

 ウゾンカルデラでの調査を行う数名の火山研究所の人間を残しヘリコプターが出発する時間になりました。マリーセミアチーク火山火口湖までもどりそこでの調査と試料を採取し、さらにその途中の地熱地帯に立ち寄りながら徒歩でこの地まで戻ってくる計画で、再度資材と人間を乗せ離陸する準備ができました。ところがその中にU君の姿がありません。責任者であるSergey 氏は短時間で彼のフィールド能力を判断し、我々と一緒に行動すると彼の命ばかりでなくこちらの生命に危険が及ぶと言うことから、彼はこの小屋に待機し火山研究所の人々の仕事を手伝うという判断が下されたのでした。

石鹸入れとの再開

 Sergey、Taras 、私と先ほどの観光客を乗せたヘリはウゾンカルデラを後に近くのガイザーヴァレイ経由でマリーセミアチーク火山火口湖へ向かいました。数分でウゾンカルデラに着き、観光客はお決まりの間欠泉めぐりに行きました。せっかくですから我々もあとをついて間欠泉をめぐりました。

 高く噴き上げる熱水は見事なものですが、我々にかかってくるミスト状のものはすでに冷たくなっていました。

 再び飛び立ったヘリは左手にボリショイセミアチーク火山を見ながら次の目的地のマリーセミアチーク火山火口湖へと向かい、無事に火口湖の上の平らなところにローターを回転させながらランディングしました。
 われわれ三名と必要な資材をおろした後、ヘリコプターのローターの回転のものすごい風圧から荷物とわが身を守り、はいつくばりながらヘリコプターを見送りました。
 その時、窓から手を振る観光客の姿がなぜか目に焼き付いていました。

 ヘリコプターが去った静寂な空間を味わい、三度訪れることができたマリーセミアチーク火山火口湖のすばらしい景色に見とれながら心の中で"また来たよ〜"と声をかけつつなつかしい傾いた小屋で簡単な夕食を作りました。小屋には昨年あわてて下山した際に忘れていった石鹸入れがきちんと残されており、たかが石鹸入れごときではあるが一年ぶりに再会したその石鹸入れになつかしさを感じ、また、明日からの調査の計画と再び会うことができた友とフィールドに乾杯しながら寝袋に入りました。

マリアセミアチーク火山火口湖での研究活動

湖水のサンプル採取 翌日からのマリーセミアチーク火山火口湖での3日間をかけた深度別湖水のサンプル採取や測定は毎日夜9時、10時まで働き(ロシアの夏は暗くなるのが夜11時半頃で明るい時間が長い)、好天のうちにその全行程を終了しホッとしていると、翌日には“これら多くの湖水サンプルを25Km 離れたカリムスキーのステーションに持って行く”とのお達しがありゆっくりするひまなく次の行動に移らなくてはなりませんでした。

 なぜ25Km 離れたカリムスキーのステーションにサンプルを運ぶかというと、いくら強靭な体力を持ってしても自分の荷物やテント、実験器具で一人20〜30 Kg の荷物を持った上に何十キロという水を持って長距離の移動はできないことと、この山頂の小屋にサンプルを置き、ヘリコプターに取りに来てもらうにしても天候が不安定なので、果たして立ち寄ってくれるかどうかわからないことなどからあまり天候に左右されずに確実にヘリコプターが寄ってくれ、街まで荷物を運んでくれる場所を選択した結果だそうです。

 カムチャツカでは頼んでおくと通りがかりのヘリコプターが荷を運んでくれるそうです。ついでのことでいつまでとかの日にちの指定は出来ないまでもこのシステムは聞く度に何かほのぼのとしたものを感じ、何か日本の宅配のスケールを大きくしたようにも感じられました。  

 明朝、寝袋やサンプルをかついで一日掛かりでステーションに向いましたが、この道は2年前によく歩いた場所なので非常になつかしく、またその時の麓の小屋にも立ち寄ることができたので、2年前にこの場所にはじめて降り立った時に感じた素晴らしい感動が甦ってきました。小屋とテーブルだけが残っている閑散としたかつてのベースキャンプに立ち、ここにテントを張りここで煮炊きをしたんだななどと考えながら目を閉じれば、あのときの人々の動きがまぶたの裏に映像となって再現されました。

 実はこの小屋にあと100m位に近づいた時、Sergey が我々を制止したのでした。親子連れのクマが小屋の周りをうろついていたのです。こちらに人がいることを知らせた時、急に熊が動いたので「逃げろ」と言われましたが、私は自分の靴の紐を自ら踏んでしまいあたふたしてしまいました。その情けない姿の私がクマのいる方向に目をやると、約50m 先に犬が二本足で飼い主に甘えているような姿の母グマと目があってぞっとしました。

 Sergey 曰くクマは目が悪いから見えていないでしょと言っても実際気持ちがいいものではありませんね。すぐに茂みに逃げていきましたが、母グマの後を追って走っていく小熊たちは大変可愛らしかったことを記憶しています。

カリムスキーの小屋の周辺でもサンプルを採取し、そのステーションで2泊し、3日目にマリーセミアチークの小屋へともどりました。
 途中雪渓を上っているところで雨が降りました。その量たるや熱帯地方のスコールのような雪渓の上を流れるくらいの量の雨が降ったのですが、丁度のどが渇いていたのでその水でのどを潤しほっと一息つきました。ところが、その場所からちょっと雪渓を上ったところに大量のクマの糞があり、さっき飲んだ水は・・・後の祭りでした。山頂の傾いた小屋に戻った頃はもう夜の11時近かったので真っ暗でしたが、それから簡単に食事の準備をし、さらに明日からの強行軍に備えて様々な準備をしました。相当遅い時間になって寝袋に入ったのを記憶しています。

"はじめてだが心配するな"!?

 朝寝坊をした8月6日、ひとり20〜30kg の荷を担ぎマリーセミアチークの山小屋を出発したのはたしか昼に近い時間でした。直線で80 〜100Km 離れたU君や火山研究所の皆が待つウゾンカルデラへと向かって歩き出しました。火口の縁に出ると今まで見たことがない世界が目に飛び込んできました。

 ベーリング海です。すばらしい景色でした。もう少し北よりに目を向けるとこれから我々が通るボリショイセミアチーク火山が目に入りました。Sergey は私の後ろの小高い山(グリーンの山)を指して、今日はあそこまで行こう!あそこでキャンプだ!と言って意気揚々下山を始めたのでした。てっきりこのルートは彼らがかつて経験したことがあるものだと思っていたのですが、"はじめてだが心配するな"と言う言葉を聞いて行く先に少なからず不安を感じました。それが的中!歩けど歩けどあのグリーンの小高い山は近くならず結局その山の麓まで4日かかりました。

 

フィールドワークの醍醐味Index>>続きを読む!