『1994のフィールドワーク』

1994-1 | 1994-2

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クマとのニアミス

 一日目の宿は沢を降りる途中の草むらの中で、二日目の宿は大きな沢の脇の草むらで、クマが行き来する道の真ん中でテントを張りました。この事は確実に自殺行為にも見うけられましたが、彼らはちゃんとテントの四隅に火をたいてここに人がいることをクマに知らせていたのでした。案の定、朝、数十メーター先を熊が歩いているがさごそという音で目が覚めました。

 クマと言えば、朝起こされた場所から二尾根越した沢に降りると何頭もの大きなクマが鮭を捕っている光景に出会いました。大きいものになると500Kg にもなるクマがいるそうで、その姿には勇壮なものがありましたが、後から考えると結構危険な場に居合わせたのだなと思いぞっとしました。ところで、何度か経験した川の横断ですが、あまり気持ちがいいものではありません。流されたら下でクマが待っているぞ〜などと冗談も言われてましたが、流れが速い場所もあり非常に苦労しました。

 股の下まで来る長靴を履き両手にはストックを持ちバランスを保ちながら歩くのですが、その時は自分の足が短いのを自覚せず、水面までまだ余裕がある Serugey や Taras の足を見ながら歩いているのにどうして自分だけが同じところを歩いて濡れてしまうのか、その時は不思議でしたが、後になって愚かな自分に気がつき情けなくなりました。

 クマが多くたむろしていた付近の森では"人がいるぞ〜"と怒鳴りながら歩いていましたが、ある時私の足に堅い白いものがあたりました。熊の頭蓋骨でした。ヘルメットと大きさを比較しても大きいことがおわかりになるでしょう。

8月9日 ブルーベリーをむさぼり食う

 8月9日にやっと例のグリーンの小高い山の麓に到着しました。翌日、この山を左に見て大きな岩が点在する上り坂を登っていると目の前にたしか地学で習ったような氷河地形が現れました。
  それは高校時代に教科書に載っていた写真そのもので、実物を目にする機会がなかった私はその地形に非常に感動しました。でも、もっと感動したのはその先で目にした夕日に映えるバリショイセミアチーク火山でした。
  荒々しい稜線を持ったバリショイセミアチーク火山のふもとに立った時、真っ赤に染まった山体の美しさとその雄大さに圧倒され、しばらく呆然と立ちすくんでしまいました。

 どうもこの近くに小屋があるらしいと情報を得ていた Sergey 氏は私に荷物の番を頼み Taras と二人でその小屋を探しに出かけていったしまったので、しばらくこの大自然のすばらしさをひとりじめしていました。

 バリショイセミアチーク 

 荷物番をしながら大量に自生しているブルーベリーをむさぼり食い、さらにこの贅沢ともいえるほどのバリショイセミアチーク火山の夕焼けをたった一人で眺めていると、日本でのいやなことを忘れることができました。心が洗われるとはこの様なときに使う言葉なのだなとしみじみ感じました。

 この様な雄大な大自然の中にひとりたたずみ自分の人生を振り返りさらに現在の自分についても冷静に考えてみると、日本にいてちっちゃなことでくよくよしている自分の日常がなぜか馬鹿らしく思えるようにもなりました。その時ふと稜線に目をやるとそこには大きな角を持ったヘラジカが現れ、それが夕日とシルエットになり、私ははもう言いようがない最高の気持ちに浸ってしまいました。
  この様な贅沢な思いは体験したくてもなかなかできるものではありません。おもわず"この様な機会を与えて下さった友人達とカムチャツカの大自然に感謝感謝!"とつぶやいて天を拝んでしまいました。

  こんなことばかり書いていますが、そうそうノスタルジックな雰囲気に浸ってばかりではなくきちんと仕事(サンプリング)もしましたよ。小屋の近くに草木も生えていない荒涼とした丘が続き、映画の中で見たまるで地球でないような場所があり、そこには七十数度の真っ黒な熱水のプールが存在していました。

あわや、捜索隊出動!?

数日ぶりの小屋 その晩、彼らが見つけた小屋にたどり着いたのは11時半をまわっていたと記憶しています。数日ぶりの屋根付きの木造小屋で、久しぶりに危険を感じることなく熟睡しました。翌朝、小屋の近くの方向指示板に誰が書いたのか"こっちモスクワ"とあったので、私もすかさずマジックで東京方面を指し"あっち東京"と書いてきました。
 ところが、こんな冗談は言っていられない事態になりました。私たちの徒歩による大旅行は当初考えていたより日数がかかってしまい、今日11日中にウゾンカルデラに着かないと捜索隊が出ることになっていたらしいのです。

 今回は連絡用の無線も持たず、クマよけの銃も携帯していなかったので、約束の日までに帰らないと大変なことになってしまうのです。この小屋から目的地のウゾンカルデラまであと二十数キロと言っていたので、今日中に何とかたどり着けると思ってはいたのですが、まあ休憩時間も惜しんでできる限り目的地に近づくように頑張るしかないので、昼も食べずに飴をなめながらの強行軍でした。

去ってゆくヘリコプター 途中頭上をヘリコプターが通りすぎていったので、"お〜い乗せてってくれ〜"などと言ったのですがむなしく飛んでいってしまいました。
「日本語で言ったのがだめだったかな?」
などと冗談を言ってたのですが、実はこのヘリには東大の先生方が乗っていたそうで、杉森とU君がどうしているかを見に来たところだったそうです。フィールドにはちょっと顔を出すよとは聞いていましたが、まさかこの様な形でお会いするとは・・なんて日本に帰ってきて先生方と冗談を言った次第です。実際、U君だけはその時先生方に会っており「杉森はどこにいるの?」という先生方の質問にだれも答えられなかったので、日本からわざわざ陣中見舞いに来られた方々はとても心配して下さったそうです。

 ウゾンの小屋まであとちょっとのところまで来てひと休みしようと腰を下ろしたところ、茂みからクマが飛び出しこれからわれわれが下山する方向へ逃げていきました。その先にはウゾンカルデラとガイザーヴァレイを結んでいる登山道があります。上から覗くようにして見ると、クマが横切ろうとしているその登山道にはめずらしく人の列ができていて、上から怒鳴っても声が届きません。クマとはち合わせにならなければいいなと思いつつはらはらしながら見ていたところ、ちょうど列が切れたところを熊が横断していったのでホッとしました。

カムチャッカにキリン!?

 小屋が見え、皆のなつかしい顔がだんだんと大きくなっていくにしたがって目に熱いものを感じました。彼らはシャンペンで迎えてくれました。彼らと熱い抱擁をし再会を祝し乾杯をした時、幾度となく危険な目に遭いながらも大自然の仕組みに逆らわず無事に帰って来られた喜びにひたることができました。

 私たちのグループばかりでなくウゾンの小屋で調査をしていたグループにも様々な出来事があったようです。山小屋の川向こうにトイレがあるのですが、その周りに2本足で立ち上がると2mを越すクマがうろついてトイレにも行けず、小屋の周りで見張りをたてて用を足したことやウゾンカルデラでの調査概要などもはなしてくれました。

 この数日間の行程は非常に大変だったこと等、こちらのエピソードも沢山話しましたがその中でぼくがU君に「いや〜途中キリが出て多変だったよ」と言ったら帰ってきた言葉がまじめな顔でうなずきながら「そうですか。キリンがでたんですね。」と返ってきたので、「今何て言った?一体おまえ何考えているの?」とあきれてしまいました。杉:ここはアフリカか?! U:そうですよね、おかしいですね! だって?  

バンノエレイク その日の晩は久々の御馳走とウオッカで大変な一夜を過ごしました。昨日までのクマ騒動があった関係上、トイレは小屋の前で済ませました。また、原則として複数人でトイレに行ってたのですが、皆、酒でできあがってしまいだんだんとルーズになってしまいました。その時、U君はなかなか帰ってきません。あれ?クマに食われてしまったかなと思い心配になって見に行くと飲み過ぎて自分の小用を足した草むらに倒れ込み腰が抜けてまるで泳いでいるような格好でした。

 抱き上げて小屋に連れて帰ったのですが、しきりに I was swiming in the grass ! と言い続けていました。酔っぱらいを寝かしてその周りにウオッカのビンを並べ記念撮影をした後、みんなで風呂に行きました。風呂とは小屋の隣にあるちょうど41℃の入浴するのに適した直径20mのバンノエレイク(“バンノエ”とは風呂の意味)のことで、そこに男女かまわず全員で入り満点の星を眺めながら、語りあったことは忘れがたい思い出です。

ウゾンカルデラでサンプル採取

 13日〜20日までウゾンカルデラの端から端まで歩きサンプルを採取し、同時に調査を行いましたが、様々な性質の多くの熱水がいたるところからわき出している様は圧巻でした。様々な泉質の熱水はそこにとけ込んでいる成分が各々異なるので、青、白濁、赤といった様々な色に見えます。それらの色が、周りの緑や時たま立ち込める霧とあいまってすばらしい幻想の世界を作り出していました。

 

お別れパーティ

 最終日に打ち上げパーティーを行ってお互い多くの事を語り合いながら飲んだことにより、彼らの人なつっこさと純朴さといったロシア人気質が伝わってきて別れがたい思いをしました。

 ヘリコプターが迎えに来てくれるはずの21日はとても良い天気でしたので、こちらも迎えに来るのを期待しながら待っていたのですが、夕方になって「今日は来なかったね」という一言で片づけられまた明日があるさといった感じで済まされました。ついつい私たちはいったいいつ来るの?何時頃来るの?といった質問をよく繰り返し相手に聞いていましたが、近頃はこれはこの国においては非常に無意味な質問であることを理解し、黙って最低一回は待つ覚悟でフィールドで仕事をするようにしています。

 この日の夜は月夜の晩で近くの大きな湖(ダンノエレイク)に行きましたが、そこでクマよけの信号弾で花火を打ち上げて帰って来ました。次の日は来ると言うことで、一日ひなたぼっこして待っていたのですが「また今日も来なかったね」という一言で片づけられました。ヘリコプターのチャーターというのは大変に高額なお金を必要とするので、われわれの場合はいろいろなヘリコプターの会社に打診し席が空いている場合近くに来たヘリコプターの会社に打診し、席が空いている場合近くに来たヘリコプターが立ち寄ってくれるように頼んであるとのことでした。まるで乗合タクシーみたいなものですね。

 3日目はヘリコプターは来ないと言うことでしたので、何人かは先日夜に花火を打ち上げに行った歩いて30分の所にある湖に遊び(なんと彼らは10℃の水で水泳をします)に行きました。
 私は小屋でくつろいでいるとどこからとなくヘリコプターの音が聞こえてきました。だんだんと大きくなるヘリコプターの音に、湖に行った皆があわてて走って帰ってくる姿を私はのんびりと小屋から見ていました。観光客を乗せたヘリコプターはウゾンカルデラのヘリポートに無事に着陸しましたが、座席が3つしか空いてない事、私とU 君がカムチャツカを発つ日が明日であること等の理由から、そのヘリコプターには私、U君、Sergey 氏の3名が先に乗り街に帰ることになったのです。一緒に汗水たらして働いてきた仲間が一緒に帰れないことを知って涙が出て来ました。最後まで手を振っている彼らの姿を飛び立ったヘリコプターの窓からみて再び泣き出してしまいました。

 Sergeyの家に帰ったときウゾンカルデラに置き去りにしてしまった彼らのことが忘れられず、ひとりしょげ返っていましたが、Sergey の好意で「杉森君は今日がカムチャツカ最後なのでお別れパーティーをする」という企画をたててくれました。パーティーが始まる時間になっても何となくまだ先程の出来事が尾を引きうかない表情の私にSergey は「何しょげてるの?最後だから楽しくやろうよ。みんな来るよ!」と言ってくれましたが、私には何のことだか理解できませんでした。

 そのうちに私の前には着飾ったここにはいないはずの人々が次々現れるではありませんか。“唖然としている”私にみんな「Hi!ズドラースチェ(こんにちわ)!」と何事もなかったように声をかけていきます。あの後すぐに別のヘリコプターが何と2機も来てしまい、結局全員無事に町まで戻れたとのことでした。私の中ではもう会うことが出来ないとあきらめかけていたことなので、ついついうれし涙を流してしまいました。このころから私は涙腺が弱くなったみたいです。

最後に−報われた努力と忍耐−

 この様に1994年のフィールドワークはいろいろなエピソードがあり忘れることが出来ない夏になりました。

 帰国後、U君が大変に変わったこと、短期間で人間的に非常に成長したこと等、脇田教授からお礼を言われましたが、どうもU君の話題でもちきりで無事サンプルを持ち帰ったことなど二の次でした。どうしてあんなに人が変わってしまったのか大変不思議だったそうです。生活面で朝起きてから寝るまで怒鳴りつけていた私の努力が実ったようで、私は彼が怪我無く無事に帰って来られたことだけでほっとしました。
  “さあ、サンプリングに行くぞ!!”と言って最初はスリッパで出て来てしまうような彼に、最後はまあ何とか怒鳴る回数も減ってきましたが、私の大変な努力が必要だった事は言わなくても皆さんおわかりになるでしょ?

 

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