東京湾海藻日誌

東京湾の海藻(1)

1.奥東京湾の景観の変遷

 東邦大学理学部のある千葉県船橋市は東京湾の最も奥に位置する。1960年代はじめ頃、現在の国道14号線(千葉街道)は海に面して走っていた。市川から検見川までの海岸は遠浅の砂浜であった。

 竿建式の浅草海苔養殖が行われ、アサリ採りもさかんであった。東邦大学キャンパスから自転車で、大久保商店街を抜け、鷺沼の海岸までおよそ20分のゆるい下り道を海藻採集に通ったものである。国道14号線沿いの家並みはみな低く、家々は黒っぽかった。家の前や空き地には漉いた海苔が乾されていたし、道の両側には乾したアオサが山と積まれていた。

 1956年に筆者は東邦大学理学部助手となり、薬師寺英次郎教授の研究材料にハネモやノリの採集に通ったものである。その頃すでに国道14号線の先は埋め立てが始まっていた。1971年には京葉道路が海に面しており、京葉道路の下をくぐって海に出て採集をしていたものである。この頃、沖には水平線が見えないほどに竿が建てられて浅草海苔の養殖が行われていた。 

 海苔ヒビから落ちたノリが海に漂い、これをひろい集める「落ち海苔拾い」をする人がたくさんいた。臑まである長靴をはいて、綿入れを着て、頬かむりをした女の人や、同じ格好をした日に焼けたお年寄りが多かった。竹竿の先に小さな網を付けて、これで海に漂うノリを拾い、竹で編んだカゴやザルに集めていた。当時も海苔は高価なもので、海苔採り漁師と仲良くなっても、一度も漉き海苔も生海苔ももらったことはなかった。もちろん、一般の人達が海に入ることもゆるされていなかったから、海藻を採集する時には久々田の船溜りにいって、漁協の人に挨拶してから海に入ったものである。帰りにも漁協に寄って収穫物を見せてから帰ってきたものである。漁師から「ハネモも酢のものにして食べる」ことや、「イソギンチャクもよく洗って煮て食べる」ことを聞いた。

 筆者がアメリカから帰って来てたずねた津田沼の海はさらに沖まで埋め立て工事が進んでしまい、もう海岸まで歩いたり、自転車に乗って到達できる状態ではなくなっていたし、さらに。習志野市の海岸はほとんど埠頭とコンクリート岸壁に変わってしまった。そのために、津田沼で海藻採集をすることはなくなってしまったのである。

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