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第2章 トカゲの島

その2 船出−1

 人気の少ない倉庫街のはずれ、波止場という言葉が似合う潮くさい港。ほこりっぽい砂利の広場。対岸に赤く『まるは』のネオンサインがかすみ、黄色い満月がその上に昇る。ここは東京都港区竹芝。この港の桟橋から、伊豆諸島へ向かう東海汽船が毎晩出航する。
 梅雨が明け、夏休みの始まりとともに、高校生や大学生が大挙して押し寄せ、砂利敷の広場で乗船の時を待つ。若者たちが、抱えるカセットデッキからは、その夏の流行歌が流れる。1979年は矢沢栄吉『時間よとまれ』。1980年、松田聖子『青い珊瑚礁』。1982年は中森明菜の『北ウイング』だったか。私は重いザックを背負い、中にキャンプ用具、布袋、釣針、ミルワームという虫をしのばせ、一人乗船待ちの列に加わった。1978年8月のある晩のことだ。
 行き先はここから南、約180kmの太平洋上に浮かぶ三宅島。珍しい鳥の観察や、スキューバダイビングで海底散歩を楽しむ自然指向の人々が多く訪れる火山島である。なぜ三宅島か。それは、オカダトカゲという伊豆諸島固有のトカゲがそれはもう足の踏み場もないほどたくさんいるからだ。この島になぜ、そんなにもトカゲがたくさんいるのか。トカゲ社会の人口問題はいったいどうなっているのだろうか。1977年の7月、私は大学の合宿で初めて三宅島を訪れ、実際にものすごい高密度でトカゲが生息するという事実を自分の目で確かめ、トカゲ社会の人口問題を明らかにするための調査を行うことにしたのである。そして、これが島通いの本格的な始まりとなった。

 三宅島におけるオカダトカゲの調査が何を目的として、どのようにして始まったのか。本棚にしまわれていた初期のフィールドノート、黄色のバインダーに綴じられたB6判のカードをめくって記録を辿ってみる。私がオカダトカゲの巣を最初に発見したのは、1977年の東邦大学生物部の合宿で、雄山への林道を登っている途中であった。巣があった付近の植生はクロマツとオオバヤシャブシの疎林。ここで1977年7月19日−21日にまず10巣、翌年の1978年7月26日と27日には合わせて15巣も発見された。これらの巣は、コンクリート製のU字溝、アスファルトの破片、腐った丸太の下から何巣かがかたまって見つかった、とある。U字溝の下から見つかったのは4例(6巣、4巣、1巣、1巣)、アスファルトの破片の下からは3例(2巣、1巣、1巣)、丸太の下からは2例(7巣、2巣)である。平均すると1つの石、あるいは丸太の下に3個弱もの巣があった。しかし、巣がどんなに集中していても2匹以上の雌の巣が融合していたことはなく、1つ1つの巣は独立していた。巣の中には1匹の雌とその卵が一塊りとなって見つかった。巣の形は大別して、皿状、壺状、管状の3つ。しかし、どんな形の巣であっても外部との出入口は認められない。海岸(三池浜)付近の石や丸太の下からは、雄や未抱卵雌、幼体の巣穴がいくつか見つかったが、これらの巣穴はいずれも石のふちと通路状のもので連絡しており、盛んに出入りしているようすがみられる。巣の形状から判断して、卵を護る雌は巣から離れず、地上に出て餌をとったり日光浴などはしていない、と思われる。

 カードの厚みは2cmほど、その1枚1枚に1977年の三宅島で観察したオカダトカゲのことが、簡単なスケッチをまじえて記録したものだ。私は、白い表紙にローマ字でMIMOSAと書かれた冊子を本棚から取り出して学生の目の前に置いた。

「ここを見てください。これが僕が大学2年の時に書いたオカダトカゲに関する処女論文です。」
「大学2年で?ずいぶん早いですね。」
「1978年の夏に三宅島でテント生活をしながら観察した結果をもとにまとめたものです。勇み足の部分も多いけれど、考えを整理する上で、ずいぶんと勉強になりました。」

 論文のタイトルは「オカダトカゲの産卵習性、その比較生態学的考察」である。B5判、2段組み、13ページは結構長い論文である。

 『1977年7月19日より7月24日にかけて、東邦大学生物部は伊豆七島、三宅島で森林植生の調査を行った。その際、私は坪田から雄山の山頂へいたる林道において、道の脇に放置されたコンクリート製のU字溝とアスファルトの破片の下からオカダトカゲ(Eumeces okadae)の巣を発見し、抱卵中の雄と卵を観察する機会を得た。さらに1978年の7月と8月に2回の追跡調査をし、より詳しい観察を行った。Eumeces 属のトカゲでは、鳥類の抱卵や給餌とは別のタイプの保護である雌による卵の保護(Brooding)習性が広くみられる。日本には8種のEumeces 属のトカゲが生息するが、野外での巣や抱卵行動についての観察は少ない。』

これは、さっきのカードに書かれていたことである。続けて読んでいく。

『ここでは、1977年と1987年の計3回の調査結果を主にオカダトカゲの産卵習性について報告し、さらに以前より続けていた千葉県船橋市のニホントカゲでの調査結果と比較して、その進化的意義に関する私の考え方を紹介したい。このような種間、あるいは同一種内の個体群の生態の比較研究は、生物進化を解明するうえで大きな意味を持つものと思う』

 「ずいぶんと大上段に構えていますね。」
でも、確かにそうなのだ。進化に興味をもつ以上、同じ種類でも、別々の環境に生息する2つ以上の集団を比較し、近縁な種類を比較するのは常套手段なのである。しかも、オカダトカゲの産卵習性を観察して報告するのに、ニホントカゲの観察事例を付け加えて進化に話をもっていくのは、我ながら目のつけどころがよい。論文は大きく三部構成となっている。第一部は、オカダトカゲの産卵習性の記述に徹していて、1)発見状況と巣の形態、2)抱卵雌の特徴、3)一腹卵数と卵サイズ、4)抱卵行動、5)孵化子の形態、と、1977年、78年に野外で発見したオカダトカゲの一連の観察結果を時系列にそって紹介している。第二部でニホントカゲとの比較を行ない、第三部では、オカダトカゲの繁殖様式の進化について、1)ニホントカゲとオカダトカゲの系統関係、2)生息環境の特徴、3)繁殖率の進化、4)性成熟時期の決定要因、最後に5)繁殖努力と卵サイズ、へと論を進めている。学生は一通り読み終えて、さらにその後の発展、研究の背景について、聞き出そうとする。

「まず抱卵雌の特徴、の所で質問したいと思います」
「どうぞ」
「えーと、30ページの右の段、1行目から『頭胴長75o(抱卵雌の最小値)以上でも抱卵していない雌が多くみられたが、これらは未成熟と考えるよりはむしろ、繁殖活動を一時休止している個体と考えられる』、とありますけど、これは実際のところどうだったんですか」
「よく聞いてくれました。これはその後、トカゲ類ではとても珍しい隔年産卵という現象の発見につながりました。」

 私は、隔年産卵を確認するに至った経緯とその後の進展について、次のように語った。

 「1978年の2回目の野外調査で見つけた巣の数は15。巣で卵を守っていた雌のうちうまく捕まえることができたのは、そのうち8匹。頭胴長は75-88mm、体重は6.0-10.4gでした。この8匹は写真で見てわかるようにかなり痩せています。脊椎と腰骨が浮かび上がり、尻尾はしわしわに縮れているでしょう。ところが、全く同じ時に、ほとんど同じ大きさで、まるまると太り卵も抱かずにあたりをうろついている雌がいました。そこで、さっそく地表をうろついている太った雌を12個体捕獲し、その体長と体重を測定してみました。体長は、透明な定規にトカゲをぎゅっと押し付け、お腹側から見て、頭の先端から肛門(爬虫類は糞と尿を同じところから排泄するので、正確には肛門ではなく総排泄孔と呼ぶ)までの長さをミリメートル単位で測ります。この部分の長さを頭胴長と呼び、つかまえた雌の頭胴長は75から87mmで、巣の中で卵を守っていた雌とほとんど同じだが、体重は8.6から16.7gもあった。同じ頭胴長で較べると6-7gも重かったんです。
 それで、いったい、これはどういうことだ。何か面白そうなことがあるに違いない、という漠然とした期待感が湧いてきて、そう、この明らかに栄養状態の違う2タイプの雌を捕まえたことで、その理由を明らかにしたいという気持ちで一杯になったわけです。結論は、一言で言えば、隔年産卵という現象、つまり、一度産卵した雌が次の年の産卵を休んで、消耗した栄養状態を回復させて、2年目に再び産卵することですが、その証明、つまり隔年に産卵を行なっているということを、確信をもって示せるまでに2年かかり、私の関心は結局そのまま三宅島、そして伊豆諸島から離れられなくなりました。

 私は、今考えてみるとかなりませた学生で、入学直後から、大学の図書館へ出入りし、雑誌をあたって片っ端から爬虫類や両生類関係の論文を集めていました。高校時代に比べれば頻度は落ちたけど、木曜日になれば相変わらず情報交換会に出席していましたし、爬虫類学を身につけるためには外国の文献を読まなければならない、という風潮が交換会の会員には濃くあって、そういう時代背景と自分の成長期が重なっていたと思います。そんなわけで、マムシ類、クサリヘビ類、ガラガラヘビ類、それから一部のトカゲとサンショウウオ類では、個体群としては毎年繁殖が行われていても1匹の雌は1年おきに繁殖する例がある、ということは知っていました。でも、そういうヘビ類なんかで隔年繁殖の証拠として示されていたのは、繁殖期に卵を持っていない個体が存在することと、そのような雌の割合が成熟サイズ以上の雌の個体数で約50%である、という2点でしかなかったのです。その上、なぜ繁殖を休むのかということについても充分納得の行く説明もありませんでした。
 1978年8月に、最初にマーキングした成熟雌は35個体で、その内がりがりに痩せていたのは18個体、逆に丸々と太っていました、つまり繁殖を休んでいたのは17個体でした。巣の中にいて卵を守っている雌が非常に痩せていたので、子トカゲが孵化する時期に出てきたがりがりに痩せていた雌は、その年に繁殖した個体であると判断されます。本当は、巣にこもって卵を守っている状態の雌を見つければよいのですが、簡単にはみつかりません。
 そして、1979年の3月と5月に、最初のマーキングから半年後ですが、2回目と3回目の調査を行い、多くの個体を再捕獲しました。再捕獲された雌の一部(8個体)を解剖し、卵巣の状態を調べました。結果はとてもはっきりとしていて、前の年に痩せていた雌の卵巣は全て未発達状態で、前年に丸々と太っていた雌の卵巣には黄白色の卵黄が蓄積した直径4-6mmの濾胞がありました。輸卵管も発達していて、その年に産卵することは間違いないと判断しました。もっとも、この個体は私が殺して解剖してしまったから、産卵できなかったけれど、隔年繁殖はまず間違いないと確信できました。ここに当時、フィールドノートに書き残した文章があります。」

 私は、濃い緑色の厚紙の表紙をした小さなノートを開き、ボールペンで書かれた走り書きを指し示した。


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