後藤先生の徒然日記

「這う男」とアンチ エイジング (2016年7月14日)

シドニー・パジェットの描いたホームズの肖像(ウィキペディアより引用)

 コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ シリーズには医者でもある著者の薬物や毒物に関する科学的知識が基礎になっていると考えられるものが多い。『シャーロック・ホームズの事件簿』に収録されている「這う男」も彼の医学的興味から発想されたものと思われる。舞台は19世紀末のロンドンで、1923年に発表された作品である(1)。 さる大学の男やもめの老教授が同僚教授の見目麗しいお嬢さんに好意をいだき目出度く婚約するまでは良かったが、想いつのって若返りを図り、思いがけない展開となる、という話である。

・・・教授は専攻する生理学の知見をもとに、サルの血清を入手して若返りを試みる。血清を注射した日は、行動がサル化して、邸宅で手と足を床について暗闇の中を首を下げて這い歩く、家の外壁に絡まる蔦をよじ登って三階の窓から部屋の中を覗きこむ、忠実な飼い犬をからかって咬みつかれて大怪我をする、などなど。秘書から奇妙な出来事が頻発する事件の解明を依頼されたホームズは、教授宛に定期的に送られてくる謎の小包の送り主の背後に若返りの血清療法開発者がいることをつきとめた。例によって独創的な閃きで教授の異常行動の原因を明らかにする、という筋書きだ。

 コナン・ドイルがこの短編を書いたのは、近代医学の黎明期で各種若返り法が市民の関心をひいた時代だった(その頃どんな療法が行われていたかは、文献リストのジョン・ランゴーンの著書を参照)。当時は、まだホルモンの存在は知られていなかったが、医学者や臨床医たちは若者の活力の源が生体内物質にあることに気がつき始めていた。
 彼にヒントを与えたと思われる研究報告は、いくつかある。例えばフランス人医師ブロン・セカールは、動物の睾丸エキスや血液を注射し、若返りをもくろんだ(文献2、p. 23-26)。この研究は、当時、内分泌研究を主導していた著名な生理学者クロード・ベルナールも一定の評価をしたらしい。しかし、彼が使ったエキスには有効な濃度の性ホルモンは含まれていないはずで、効果があったとしても心理的なものだったろうと考えられている。ロシア人医師セルゲイ・ボロノフは、サルの睾丸を老人の体内に移植して若返りを試みた(文献2、p. 30-37)。同書の記述によると腰が曲がり、目が不自由になり歩行も困難だった74歳の男性が移植後8ヶ月で15-20歳若返ったとボロノフが報告しているという。原著論文を読んでいないので、研究の信頼性は判断出来ないが、生物学医学の常識で考えると、異種動物組織を移植すれば、免疫拒絶反応が起こるはずで、危険なイカサマ療法だったのは間違いない。これらの療法は19世紀末から20世紀初頭に行われているので、コナン・ドイルは一連の報告をヒントに「這う男」を書いたのだろう。現代では不足を補うホルモン補充療法が行われる場合があるが、精緻な調節を受けている内分泌系に介入することは、病気の治療でない限り、薦められるものではない。
 この物語は、アンチ エイジングに心を奪われる現代人への警告のようでもあり、老化研究の第一人者という触れ込みで当世のマスコミに登場する専門家を思い起こさせもする。ホームズはいう「・・・もっといい方法を発見するものが現れることもあるでしょう。しかしそれには危険がありますよ。人類に対するきわめて実際的な危険です。ねえワトソン君、考えてもみたまえ。野卑で肉欲的で世俗的な人間がみんな、用もないのに生きながらえることになる。崇高な人間は、さっさとより高いところへ行くのをいとわないからだ。そうなれば世の中は生存の価値のないものばかりになる。それではこの世はまるで汚水だめと選ぶところがないではないか!」(文献1,p.327-8より引用)と。少々きつい言い方ではあるけれど。

 「這う男」で老教授を元気にしたサルの血清成分は性ホルモンが想定されるが、加齢で低下するホルモンは、それだけではない。成長ホルモンも同様で、子供時代・青年時代には盛んに分泌されて成長を促進するが、高齢期には大巾に減少し、60、70歳になると思春期の3分の1くらいになってしまう。これはあながち悪いことではない。筋骨たくましくなくても、このホルモンの低下でがん細胞の増殖が抑えられるので、突然変異の蓄積や免疫系の活性低下で発がんしやすい高齢期ではむしろメリットになると考えられる。活力も歳相応がよろしい、というわけである。

 時は移って2014年、科学専門誌 Nature Med に興味深い論文が掲載された(3)。若齢マウス(3月齢、ヒトで7-10歳相当)の血漿100μLを3日に一回、中齢マウス(18月齢、ヒトで45-50歳相当)に3週間静脈注射すると脳の記憶を司る海馬領域の神経突起密度が増えて、学習記憶力、認知能が改善し、遺伝子発現も若齢化した、という(図1)。研究者たちは、この実験の前に、パラバイオーシス*という方法で手術によって老若マウスの血液循環が共有されるようにつないでおくと、老齢マウスの脳機能、その他の機能が改善することを発見していた(図1)。若齢マウスの血液成分が老齢マウスの脳機能に影響したらしい。パラバイオーシスでは細胞の移行もありうるので、その影響も無視できないが、上記の論文では血漿だけを注入しているのでその可能性は少ない。


Villeda SA et al: Nature Med 20: 659-663, 2014より引用改変

*パラバイオーシス(Parabiosis, 併体結合)

 年齢その他の性質がちがう二匹の動物を血液が相互に行き交うように手術で結合する技術。同じ種の動物でも通常は免疫的拒絶反応が起って長く生かしておくことはできないが、一卵性双子と見なせるような遺伝子がほとんど同一の近交系**マウス同士の場合は免疫的な問題は避けられるので長期生存が可能である。通常組織の細胞は二匹の間を行き来することはないので血液中に溶けている成分の影響を調べるのに使われるが、細胞の往来は皆無ではない。
 なお、パラバイオーシス技術を使った老化研究はかつて日本でも行われたことがある(今もあるかもれないが)。ヒトの肝臓細胞数の加齢による減少や形態の加齢変化を研究していた病理学者の故・田内 久博士のグループは、ラットが高齢になると肝臓細胞が異常化するのを若齢ラットとのパラバイオーシスによって防止・回復できないかを研究した(4)。当時は移植における免疫反応について十分理解されていなかったため、ラットを使った実験ではパラバイオーシス中毒と呼ばれる一種の拒絶反応のため動物が死亡し、研究は困難だったようである。上記のNature論文では近交系**のマウスを使っているので、この問題はおおよそ回避できる。

**近交系

 兄妹交配を繰り返すと生まれる仔は生存率が低下してくるが生き延びた子孫は遺伝子が互いに一卵性双子のように同一に近づいてくる。こうした動物では相互に免疫拒絶反応が起こりにくくなる。マウスでは近交系株が数多く樹立されている。

 

 老齢マウスを若返らせた血漿中の有効成分は何か。それが分かればヒトに応用することができるかもしれない。上記Nature論文に出てくる老齢マウスの脳機能を改善する責任物質はタンパク質らしい(血漿を加熱処理してタンパク質を変性させると活性がなくなる(図2)。Nature論文の内容は、「這う男」に出てくる”抗老化血清療法”を現実のものに一歩近づけた研究のように見えるが、ヒトに応用した場合、教授がサル化したというようなファンタジーはともかく、思わぬ”副作用”が生じるかもしれない。
 こういう論文が発表されると誰しもヒトではどうだろうかと考える。実際、論文の主要著者の一人スタンフォード大学医学部神経学教授Wyss-Corayは、この技術を発展させてヒトに応用しようとベンチャー企業Alkahartを立ち上げてアルツハイマー病患者に若者の血漿投与を始めた(5)。少数の患者で行った臨床研究の結果は、学会発表されて有望そうだと報じられているらしい。私は内容を知らないので何とも言えないが、いずれにしても、多くの患者に試みて複数の研究室で確認することが必要だろう。
 同様のパラバイオーシス実験で若齢マウスの血液中にあって老齢マウスの拡張型心筋症を抑制して心機能を改善する物質がGDF11(成長分化因子11)というタンパク質であると報告されている(6)。GDF11は加齢で低下することが知られているので、その低下は加齢性心肥大の発症に関わっているようである。主に脾臓で作られるこのタンパク質は血流で全身に運ばれる。心肥大を抑制するだけでなく脳血管の成長や神経細胞の新生を促すという報告もある(7)。
 パラバイオーシスで若齢マウスと繋がれた老齢マウスが若返るというわけだが、逆に老齢マウスの血漿によって若齢マウスが老化することはないのか。論文によると、パラバイオーシス相手の”老齢”マウスが15月齢だと若齢マウスへの有害な影響はないが(8)、21月齢だと若齢側に神経細胞新生にマイナス効果がある(7)、ということだから、ある程度高齢になると老化を促進する物質が産生されているようだ。ちなみに、マウスの15月齢はヒトでは35歳くらいに相当し、老齢とは言いがたいが、21月齢は50歳程度にあたるので、老化が進行すると阻害物質が産生されることは考えられる。実際、高齢マウスの血漿は若齢マウスの神経細胞の新生を阻害する(8)。もちろん、ヒトでどうなるかについては分からない(下記追加コメント参照***)。


Villeda SA et al: Nature Med 20: 659-663, 2014より引用改変

***追加コメント

 最近個体老化と細胞老化をつなぐ可能性がある現象が細胞老化研究者の間で注目されている。個体内の細胞を取り出してシャーレ内で培養すると、数十回分裂するとそれ以上分裂出来なくなる(ヒトの皮膚などに存在する線維芽細胞の場合)。 これを細胞老化という。 細胞老化を起こす主な原因は、分裂の度に起こる テロメア の短縮である。こうして老化した細胞は、種々の炎症性物質(炎症性サイトカイン)を分泌して(SASP=senescence associated secretory phenotype 老化付随分泌形質、と呼ばれる)、これが血流で運ばれて体中の若い細胞に作用して活性を低下させる、と考える研究者もいる。この考えに従えば、老齢個体に老化細胞が増えるとそれ自身の活性低下に留まらず、個体内の若い細胞を老化させて全身的な活力低下を起こす可能性があるというわけである。本稿で紹介した血漿中の若返り物質の逆の作用ということになる。百歳老人の研究者広瀬信義博士(慶応義塾大学百寿総合研究センター)によると百寿者には炎症性サイトカインの濃度が高い人が多いという (9)。この事実を長生きの人は「炎症性サイトカインが高い」にも拘らず長寿を支える仕組みがあると理解すべきか、「炎症性サイトカインが高い」こと自体が長寿の仕組みと関わっていると見るべきか、という問題は未解決である。

文献

  1. コナン・ドイル「シャーロック・ホームズの事件簿」p.289-328(延原 謙訳、新潮文庫、昭和28年発行)
  2. ジョン・ランゴーン「長寿の科学」(講談社ブルーバックス、昭和56 年、p.12-59
  3. Villeda SA et al: Young blood reverses age-related impairments in cognitive function and synaptic plasticity in mice. Nature Med 20: 659-663, 2014
  4. 佐藤秩子:田内 久先生を偲ぶ.基礎老化研究 30: 7-8,2006;田中雅嗣:ミトコンドリアと老化. 29: 1-13, 2005
  5. Ian Sample: Can we reverse the ageing process by putting young blood into older people? Thegurdian.com 2015/08/04
  6. Loffredo FS et al: Growth differentiation factor 11 is a circulating factor that reverses age-related cardiac hypertrophy. Cell 153: 828-839, 2013
  7. Katsimpardi L et al: Vascular and neurogenic rejuvenation of the aging mouse brain by young systemic factors. Science 344: 630-634, 2014
  8. Villeda SA et al: The aging systemic milieu negatively regulates neurogenesis and cognitive function. Nature 477: 90-94, 2011
  9. 広瀬信義・新井康通・権藤恭之:17章 百寿者解析 (石井直明/丸山直記編 老化の生物学 化学同人、2014)pp. 287-304;広瀬信義 人生は80歳から (毎日新聞出版、2015)pp. 188-193

 

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